名言大学

死そのものよりも、
死についての想像の方が、
遥かに我々を恐怖させる

女性が弱いというのは嘘である。
世の中に何が強いと言って、
無神経な事ほど強いことはない

絶望は人生に必ずつきまとうものだ。
絶望しないような人間はある意味でたよりない人だといえる。
なぜなら小さな自己に満足し、
なんらの努力も考えごともしない人に、
絶望は起こりえないからだ

明日とは、
実は今日という一日の中にある

「明日は」「明日は」と言いながら、
今日という「一日」をむだにすごしたら、
その人は「明日」もまた空しくすごすにちがいありません

自己に絶望し、
人生に絶望したからといって、
人生を全面的に否定するのはあまりにも個人的ではないか

私は年をとるにつれて、
幸福の反対を不幸だとは思わなくなった。
幸福の反対は怠惰というものではなかろうか

教養の真のあらわれは、
その人の「はにかみ」にある

幸福というものはささやかなもので、
そのささやかなものを愛する人が、
本当の幸福をつかむ

青年時代に一番大切なことは、
いつまでたっても解決できないような途方にくれるような難題を、
自己の前に設定することではなかろうか

愛情がこもっていて無口な人こそ、
人生の伴侶としてふさわしい

すべての欠点は長所にむすびついている

強い精神ほど孤立する

結婚生活を末永く導いてゆくものは、
普通の意味での恋愛でもなく、
また情痴の世界でもなく、
それらを経た後に来る慈悲人間のあるがままの姿への愛情であろう

恋する男女は、
恋することによって言葉を失うものです

孤独はそれを求めたり、
感じたりしているときよりも、
むしろ予期しないときに来るものだ。
例えば明確に断言する、
決断する、
そういう時ふと自分に奈落を感じる場合があろう

恋愛にも日曜日がなければならない。
それが辛うじて永続させる方法であり、
つまり「忘却」の逆用である

恋とは巨大な矛盾であります。
それなくしては生きられず、
しかもそれによって傷つく

人間と人間のつながりは、
程度の差はあっても、
誤解の上に成立しているものです。
お互いに自分でもわからぬ謎をもって生きている以上、
当然のことだと言っていいでしょう。
善意の誤解の上に、......

徒党というものは一面からいえば孤独に耐え得ざる精神の休憩所だ

理想の夫、
理想の妻を得ようとするから失望するのだ。
凡夫と凡婦が結婚するのである

恋の味を痛烈に味わいたいならば、
それは片思いか失恋する以外にないだろう

人生は無限に深い。
我々の知らないどれほどの多くの真理が、
美が、
あるいは人間が、
隠れているかわからない。
それを放棄してはならぬ

人は何事かをなせば必ず悔恨はつきまとう。
そうかといって何事もなさざれば、
これまた悔恨となる

お互い生きることに疲れている病人だという自覚あってはじめて家庭のささやかな幸福が見出される

人間は死ぬべきものだ。
恋愛が成立するための、
これが基本条件である

今日の若い男性は教養程度が低くなったので、
目立つものにしか心をひかれない。
発見する能力を失ったのだ。
女性もまた教養程度が低くなったので目立つようにしか化粧をしない

女性は処女性をもっても、
魔性をもっても、
男性を征服することは出来ないが、
ただ母性をもってのみ征服することが出来る

読書の目的は、
要するに自分の原点を発見するという事に尽きる

夫婦の間に、
あるいは両親と子どもの間に、
肉親だから何ごとでも自由に語れると思ったら間違いだ

愛の敵は、
慣れるということである

割り切りとは、
魂の弱さである

恋愛は激しいほど休息を欲している

人間の心は、
眼や表情にもあらわれるが、
後姿にはっきりあらわれることを忘れてはならぬ

幸福とは微笑のようなものだ。
微笑は微笑しようと思っても出来るものではない。
泉のように自然に、
静かに湧いてくるものである

繊細な感受性とは、
ニュアンスへの鋭敏さともいえるだろう。
日本語でいうなら陰翳(いんえい)への愛だ

善事は罪悪感を抱きながらせねばならない

伝説には民衆の愛憎と夢が託されている

自殺とは人間的能力のへの窮極の確信なのである。
ある意味で野心であり、
虚栄ですらあるかもしれません。
けっして自己放棄ではありません

多忙であることによって、
自分は何か仕事をしたという錯覚を抱くことが出来る

人は後姿について全く無意識だ。
そして何げなくそこに全自己をあらわすものだ。
後姿は悲しいものだ

歳月は慈悲を生ず

人生は悪意にみちたものかもしれないが、
どんな人間のうちにも一片の善意はひそんでいるものだ

未完成の自覚を持って、
絶えず努力してゆくところに青春がある。
たとい若くても、
自己満足におちいっているなら、
その人は老人に等しい

結婚とは青春の過失であるとある作家は言ったが、
過失であって結構なのである。
お互いにしまったと思いつつ、
「お互いに、
しまったわね」などとニヤニヤ笑いながら、
さし向いで言うようになったらしめたもので、......

夫婦生活は、
神経の使い方が問題である

私の感情としてあった中国人侮辱感は、
その半面にヨーロッパ人やアメリカ人への劣等感を伴っていた。
今度の戦争で無条件降伏するよりもずっと以前に、
我々は「ヨーロッパ近代」に無条件降伏してきたのではなかったか。
それで私の対米英戦争肯定の気持の中には、
この劣等感に対する反発のあったことにも気づくのである。......

私自身は中国を旅したこともなく、
中国人と交わることもなかったが、
しかも心中では、
いわれなき蔑視あるいは軽侮の感情をもち、
この国と戦わねばならね悲しみを身にしみて感ずるようなことはなかったのである

井伏鱒二、
太宰治等の作家に長く交わり、
ともすれば生硬になりがちな批評家の批評筋肉といったものを、
柔らかくもんで貰ったことも記しておきたい

(河上徹太郎の「批評の悦び」を読んで)あまりに批評家という言葉にとらわれすぎている。
僕は自分が批評家とよばれようとよばれまいと大して意に介さない。
もう少しゆとりある一個の人間であればいい。
徹底した客観などというものは認められないのである。
政治のみならず、
文学においてさえ客観の姿ほどあいまいなものはない

亀井 勝一郎(かめい かついちろう、1907年(明治40年)2月6日 - 1966年(昭和41年)11月14日)は、昭和期の文芸評論家、日本藝術院会員。