名言大学

人間が毎晩眠ることによって意識を中断させ、
時に気を失い、
しょっちゅう物忘れをし、
妄想に陥り、
酒を飲んで前後不覚になるような、
つまり膨大な「不在」を介してある存在者であるからこそ、......

「才能がない」と言って諦めてしまえる者は、
そのことをもって才能がないのだと言わざるを得ない

失敗は人生の免疫である。
味わい尽くし分析せよ

他人が存在すると思うから、
その存在は僕に重くのしかかるのだ

日本人のほとんどは、
真実という言葉の内容が一義的に決まっていないと確信している

言葉には「意味」がへばりついていますが、
意味とは何かはよくわからない。
漠然と「標準的意味」があるらしいのですが、
それに従わねばならないという強制からは原則的に脱出できるはずなのに、
われわれは多くの場合、
盲目的に標準的意味に従ってしまう

まず勇気をもってエイッと一歩を進めること。
そして倒れ、
泥だらけになって這いあがり、
身体ごと何かを学ばなければ、
怒りなど学ぶことはできません

理想がはなはだ高くて、
どうしてもそれを低めることができない君はその道をトコトンまで行くしかない

いかなる失敗も、
その目標の火が消えない限り、
君は耐えられる

カミュに「優しい無関心」という言葉があるが、
これを言い換えると他人になるべく期待しないこと。
そして、
他人からもなるべく期待されないようにすること。
そうすると、
人間関係で「悩む」ことは激減する

カントが最も恐れていたもの、
それは時間の容赦のない進行だったのかもしれない

ご卒業おめでとうございます、
どうせ死んでしまうのですが

「おまえのためを思って言っている」という言葉を吐く人は限りなく鈍感です。
こちらの気持ちを正確に察知して言っていることは稀で(ほとんどなく)、
自分の気持ちを押しつけているだけなのですから

(非哲学的な)人は「何が真実か」という問いにのみ目が行きますが哲学にとってはるかに重要な問いは「真実とは何か」という問いです

いま地上に生きている六〇億を超える人々も、
あと百年もすればほとんどが消え去ってしまう

自分の考えより他人の考えや他人の欲望に影響されているのではないでしょうか。
他人の欲望から自由になることは重要なことで、
そのためには本当の自分の欲望を知らないといけません

君は理不尽に報われ、
理不尽に救われる。
きみは理不尽に成功し、
理不尽に失敗する。
きみは理不尽に幸福になり、
理不尽に不幸になる。......

どんな愚かな人生でも、
乏しい人生でも、
醜い人生でもいい。
死なないでもらいたい。
生きてもらいたい

哲学塾において教えるのが一番難しいのは、
デカルトやカントやヘーゲルの文章を理解することではなく、
彼らが絶対に疑おうとしなかった知の枠組みの「うち」で動いていたこと

プライドを捨てる苦しさより、
一流を目指す苦しさのほうが楽

生命倫理に「知りたくない権利、
あるいは知らずにいる権利()」という概念があります

考えない人間は、
どの時代にもどの地域にもいる。
彼らは、
「考えない」という唯一の武器をもって、
恐ろしいほど逞しく生きている

普通の会話において、
じつは長所・短所、
好き・嫌いでさえ、
それに付与する意味は、
個人の自由に委ねられていない

我々人間はすべて、
言葉を使用するかぎり、
理性の命ずる定言命法に従っており、
その絶対的支配下にあるということでしょう

「嫌い」の原因を私が探るとき、
私はすでに自己正当化しようとしている

全ての人が他人の痛みがわからない人を悪魔のように責め立て、
そうわめき散らす人のより一層の暴力を指摘しようとしない

「生きるのも死ぬのも厭だ!」という叫び声は矛盾しているのだろうか?
混乱しているのだろうか?
断じてそうではないと思う

我々が「語る」ことを取り戻すには、
あえて他人を「察する」ことをやめなけれはならない。
「察する」ことに鈍感にならなければならない。
そして、
その分だけ「語る」ことに鋭敏に勤勉にならなければならない

哲学は「言葉」だけが武器ですし、
それを錆びないように絶えず研ぎ澄ましていなければならない

私は日本社会は、
子どもの頃に言葉の無力さを徹底的に教える社会だと思っております

たぶん現代日本人のほとんどが、
『何が良い』のかについて唯一の規準があると思ってはいない

私は、
どうも勝つことは醜いと思っており、
勝つと自責の念に打ちひしがれ、
といって負けたくもなく、
いつも勝って「かつ」負けたいと思っている

人間嫌いにとっての理想的人間関係とは、
相手を支配することなく、
相手から支配されることのない、
相手に信頼や愛を押しつけることも、
相手から信頼や愛を押しつけられることもない関係である

善人ほど悪い奴はいない

「よく生きる」とは「幸福に生きる」ことではないことを知ること、
それが決定的に重要

哲学とは思想ではない、
文学ではない、
芸術ではない、
人生論ではない、
宗教ではない、
科学ではない

哲学に埋没するにつれ、
じわじわと客観的世界とは大掛かりなトリックであることがわかってきた

哲学者のほとんどは理性的ではなく、
感情的です。
感情的でない哲学者には私はこれまでただのひとりも会ったことがありません

「哲学とは何であるか?」と問うて「真理の追究」と答えた途端に、
すでに「哲学」の中に落ち込むのです

哲学は、
ほとんどの人にとって、
まったく必要ない。
生きるうえで必要な知識など何も与えてくれません

世界に対する「見方」を変えることによってのみ、
解決されるかもしれない問題があるのです。
それに気づいた人が「哲学塾」の門を叩くのだ、
と言っていいでしょう

哲学においては、
たとえ人類が滅びようが劣化しようが、
不幸になろうが、
真理は真理

哲学者の仕事は、
誰でもよく知っているけれど、
なぜか微塵も反省しない「卑近な・目先のこと」を徹底的に思索することなのです

自己欺瞞にまみれていても幸福なのではなく、
自己欺瞞にまみれているからこそ幸福なのだ

「私」はやがて死ぬ

人間の間で理解し合えると思い込めるのは「趣味や嗜好」言いかえれば「感受性」の領域に入らない限りのこと

日本人は赤の他人に「話しかけたくも、
話しかけられたくもない」という欲望がきわめて強い

恩を施す者は、
その報酬をわずかでも期待してはならないのです。
この原則が破られるとき、
恩からはすべての光が消え失せます

不平等で、
不公平で、
偶然が評価や成功を左右するのが、
世の中だと受け入れればいい

人間関係において、
いかに相手から損害を受けたとしても、
謝罪を要求することはほとんどなく、
自分も真意の伴わない謝罪はしたくない。
謝罪したほうが得であることがわかっていればいるほど、
謝罪するのには抵抗が伴います