名言大学

やはり人口減少は何よりも大きな問題です。
〜中略〜 結果招いたのは「安心・安全・清潔・平等・正確」の国、
今の日本です。
一見プラスのようでも、
多様性や意外性が失われては国全体から「楽しみ」がなくなり、
息苦しさを増すばかりです

(平成とはどんな時代だったのでしょう?
)「夢ない、
欲ない、
やる気ない」の「三ない社会」と言えます

今後、
人口が減って土地が余る。
したがって、
人間が最も適切に配分できる時代がやってまいりました

多様な文化を育てなければいけない、
新しい未来技術を育てなければいけない、
これは今、
英断を下すべきところ

世界は近代工業社会から多様な知恵の時代に変わった

米国の大学生で一番優秀な人材は、
自分の個性を発揮したいために自立志向が高い。
そして自分の個性で成功する自信のない人が弁護士や医者、
また官僚などに流れていくのだ。
日本でも個性のある人材が欲しい

私は戦時中、
大阪偕行社小学校という、
陸軍の将校クラブ「偕行社」の附属小学校に通っていました。
当然、
その学校は軍隊教育が売り物で、
体罰を交えながら帝国不敗という信念を叩き込まれました

個性のある人はクセのある人といわれ、
独創的であることは我流だといわれる。
先生に教えられることをそのまま覚える人がいい点を取り、
いい点を取った人が官僚や政治家になる。
このような個性のない人に改革は無理だろう

その政策を進めれば、
日本は長期的に成長すると誰もが確信できる内容でなければなりません

政局は、
いわば波なんです。
維新の改革とは波をつくることではなく、
川の形を変えること

(橋下徹はどんな人?
)歴史に出てくる改革者。
平清盛や織田信長の性格を備えた人です。
大事なのは、
はっきりとした思想を持っていること

(日中)両国の協力は大きな潜在力を持っている。
金融危機の試練に対する共同対応、
アジア市場の共同開発、
アジア各国の金融協力の共同推進などの分野には、
特に大きな協力の余地と可能性がある

(2025年に大阪で開催される)万博をやるまで生きていたい

日本人の人生は、
東京一極集中で画一的な型にはめる規格化が進みました

外国の教育は個性を伸ばすことに力を入れるが、
日本では欠点を直すことに力を入れている

官僚が規制に固執するのは「万一安全が脅かされた場合、
国会や世論で叩かれるのは監督官庁だから・・・・」という口実があるからです

いつの時代も、
多様性、
意外性が大切です

日本は創業者を大切にしない社会になった

規制やルールで何でも縛る無菌社会では面白くないですよ

今、
何を行うべきか、
何をなさざるべきかという意志決定が速やかに行われ明確に確定されることは、
組織の目的達成の前提条件

敗戦で日本人のメンタリティーは、
物量崇拝と経済効率礼賛に180度変わった

日本で素人と玄人の実力が一番違うのは一に相撲、
二に落語、
三に将棋といわれました

高度成長期は一人ひとりが経済成長し、
その蓄積が高度成長になったように。
今度は一人ひとりが「好きなこと」をやる。
その蓄積が日本全体で大きな創造になる

次々と技術が発展し、
物の生産力がさらに高まる。
こういう「善循環」が起こって経済は長期的に発展するようになりました

若い世代は、
自分が何が好きなのかを一人ひとり考え、
それを実行して欲しいですね

腐敗よりもはるかに恐ろしいのは倫理の逸脱

今こそ日本人は『楽しさを求めることも正義だ』という倫理観を養うべき

安全だけでいいなら、
監獄に入ればいい。
それでもみんな入りたがらないのは、
監獄には幸福を追求する選択性がないからです

終戦間際のことで、
今でも記憶に鮮明に残っているのは、
私の知る限り、
大阪市内では反戦運動や停戦を求めるような動きは全くなかった

維新は右でも左でもない。
前だ

職業は有利よりも「好き」で選ぶべきだ。
秀才といわれた人ほど会社人間の人生になりやすいのは、
有利な職業を選ぶから

好きなことをやらないと必ず後悔します

理想を知ることこそが、
理想を実現する第一歩

人口が減ること自体を悲観する必要はない。
大事なのは、
生産性を高める方向に変化できるかどうか

時間が忘れられる仕事を探しなさい

好きなことを見つけることこそ、
人生で一番の仕事である

戦後の日本ほど経営者が重んじられた国は、
人類の歴史上でも珍しいだろう

終身雇用の専門家共同体は閉鎖社会

堺屋 太一(さかいや たいち、1935年(昭和10年)7月13日 - 2019年(平成31年)2月8日)は、日本の元通産官僚、小説家、評論家。位階は従三位。勲等は旭日大綬章。

経済企画庁長官(第55〜57代)、内閣特別顧問、内閣官房参与などを歴任した。また、株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長であり、様々な博覧会のプロデューサーとしても活動していた。

本名は池口 小太郎(いけぐち こたろう)であり、ペンネームの由来は、先祖の商人が安土桃山時代に堺から谷町に移住した際の名前である「堺屋太一」から採ったものである(堺屋は屋号にあたる)

本・作品