名言大学

利己的な人は自分を愛しすぎるのではなく、
愛さなすぎるのである。
いや実際のところ、
彼は自分を憎んでいるのだ

エーリッヒ・フロム

二人の人間は、
自分の交換価値の限界を考慮したうえで、
市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、
恋に落ちる

過去の危険は、
人間が奴隷になることだった。
未来の危険は、
人間がロボットになるかもしれないことだ

愛は技術だろうか。
技術だとしたら、
知識と努力が必要だ

エーリッヒ・フロム

愛は、
人間の実存という問題への、
唯一の健全で満足のいく答えである

現代人は、
ものごとを急いでしないと、
何か、
つまり、
時間を損したような気持ちになる。
しかし、......

エーリッヒ・フロム

人生において人がなすべき主な仕事とは、
自分自身を誕生させることである。
可能性としての自分を実現することである。
人の努力のもっとも重要な成果とは、
その人自身のパーソナリティである

一人でいられる能力こそ、
愛する能力の前提条件なのだ

エーリッヒ・フロム

自分自身を信じている者だけが、
他人にたいして誠実になれる

エーリッヒ・フロム

未熟な愛は言う、
「愛してるよ、
君が必要だから」と。
成熟した愛は言う、
「君が必要だよ、
愛してるから」と

エーリッヒ・フロム

権力欲は強さでなく弱さに根ざしている

愛においては、
二人が一人になり、
しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる

エーリッヒ・フロム

愛は「自由の子」なのであり、
決して「支配の子」ではない

エーリッヒ・フロム

もし、
私の持っているものが私を意味するなら、
また、
私が持っているものを失ってしまったら、
私は誰なんだろう?

エーリッヒ・フロム

愛するということは、
なんの保証もないのに行動を起こすことであり、
こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、
全面的に自分をゆだねることである。
愛とは信念の行為であり、
わずかな信念しかもっていない人は、......

たくさん持っている人が豊かなのではなく、
たくさん与える人が豊かなのだ

エーリッヒ・フロム

人は愛する者のために働く生き物なのです

エーリッヒ・フロム

集中力を身につけるためには、
くだらない会話をできるだけ避けることが大事だ・・くだらない会話を避けることに劣らず重要なのが、
悪い仲間を避けるということである

人生の意味はひとつしかない。
生きるという行為・・それ自体なのです

現代では、
集中力を身につけることは規律よりもはるかにむずかしい

エーリッヒ・フロム

一人の人を本当に愛するとは、
すべての人を愛することであり、
世界を愛し、
生命を愛することである

エーリッヒ・フロム

愛とは愛を生む力であり、
愛せないということは愛を生むことができないということである

エーリッヒ・フロム

自分の役に立たないものを愛する時にはじめて、
愛は開花する

エーリッヒ・フロム

大抵の母親は「乳」を与えることはできるが、
「蜜」も与えることのできる母親はごく少数しかいない。
蜜を与えるためには、
母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、
幸福な人間でなければならない

教師は生徒に教えられ、
俳優は観客から刺激され、
精神分析医は患者によって癒される

エーリッヒ・フロム

他人を「信じる」ことのもうひとつの意味は、
他人の可能性を「信じる」ことである

エーリッヒ・フロム

人間が自分で意味を与えないかぎり、
人生には意味がない

何かをもらうために与えるのではありません。
与える事自体がこの世で一番の喜びなのです

勇気とは、
あえて危険を犯す能力であり、
苦痛や失望をも受け入れる覚悟である

誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。
それは決意であり、
決断であり、
約束である。
もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、
「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる

愛は、
人と人を結びつける力なのです

エーリッヒ・フロム

人間が完全に自然から離れることはない。
あくまで人間は自然の一部だ

愛は、
人間のなかにある能動的な力である。
人をほかの人々から隔てている壁をぶち破る力であり、
人と人を結びつける力である

サディズム的人間は、
彼が支配していると感じている人間だけを極めてはっきりと「愛し」ている。
妻でも、
子でも、
助手でも、
給仕でも、......

現代における(自由からの)逃走の主要な社会的通路はファシスト国家におこったような指導者への隷属であり、
またわれわれ民主主義国家に広くいきわたっている強制的な画一化である

狂おしい努力は、
他の方法ではたえられない無力感に安堵をあたえるものであった

エーリッヒ・フロム

ルッターにみられるような、
確実性への強烈な追求は、
純粋な信仰の表現ではなく、
たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。
ルッター的な解決の仕方は、
いまでも多くの人々にみられるもので、......

エーリッヒ・フロム

指導者の性格構造は、
かれの主張を受け入れるひとびとの特殊な性格構造を、
より端的にはっきりとあらわしていることが多い。
指導者は、
その支持者がすでに心理的に準備している思想を、
よりはっきりと率直にのべているのである

エーリッヒ・フロム

愛とは信念の行為であり、
わずかな信念しかもっていない人は、
わずかしか愛することができない

愛の技術の習練という問題に立ち向かうことにする。
・・技術の習練には規律が必要である。
規律正しくやらなければ、
どんなことでも絶対に上達しない。
“気分が乗っているときにだけやるのでは、
楽しい趣味にはなりうるかもしれないが、......

エーリッヒ・フロム

一人の人間を愛するということは、
人間そのものを愛することでもある

マゾヒズム的人間は、
外部的権威であろうと、
内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、
ともかくそれらを主人とすることによって、
決断するということから解放される。
すなわち自分の運命に最後的な責任をもつということから、......

愛は誰かに影響されて生まれるものではなく、
自分自身の愛する能力にもとづいて、
愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである

エーリッヒ・フロム

人は自己自身を屈服させ、
それのもつすべての力や誇りを投げ捨て、
個人としての統一性を失い、
自由を打ち捨てる

エーリッヒ・フロム

愛情深い母親になれるかなれないかは、
進んで別離に堪えるかどうか、
そして別離の後も変わらず愛しつづけることができるかどうかによるのである

エーリッヒ・フロム

個人的自我を絶滅させ、
耐え難い孤独感に打ち勝とうとする試みは、
マゾヒズム的努力の一面に過ぎない。
もう一つの面は、
自己の外部の、
いっそう大きな、......

愛と労働は分かちがたいものである。
人は、
何かのために働いたらその何かを愛し、
また、
愛するもののために働くのである

エーリッヒ・フロム

二元にとっての主な仕事は、
自分自身を創造することである

エーリッヒ・フロム

愛は、
愛する人の成長と幸福を積極的に求めることである

エーリッヒ・フロム

死ぬということは身を切るほどつらいものだが、
それにも増して生きた実感がないまま死なねばならないと思うことは耐えがたい

エーリッヒ・フロム