名言大学

#ボスニア・ヘルツェゴビナ

「リスクを冒し勇気を奮い立たせろ」と、
何度も繰り返し提言してきた私自身が、
リスクを負わないで日本代表を語れるだろうか。
私を支えたのは、
そういうメンタリティだった

アグレッシブなプレーを心がけることで、
この欠点(判断の速さ)は埋めることができるのだ。
敵に呼吸をさせてはならない

選手が監督と同じ考えでプレーし、
同じ野心をもつようになれば、
もうその時点で大成功ではないか。
そのためには、
まず監督が選手を覚醒させて何が可能であるかを示さねばならない

戦術というものは紙に書いて説明できないし、
ひと晩で身につくものでもない

代表選手というのは、
代表だけではなく各クラブでもプレーするわけで、
人生を二倍生きているようなものだ。
Jという人生、
代表という人生を二つ生きているわけだ

ただ大量の水を運べばいいわけではない。
おいしい水でなければならない。
泉からわいたばかりの、
冷たい水だ。
日本にもワサビを栽培する泉があるだろう。
ああいうところの水だ

50年後に今日のサッカーが、
どう見えるかは、
1960年代のサッカーと現代のサッカーを比較するようなものに違いない。
サッカーは、
きっと、
それほどの進歩を永遠に遂げるのである

システムは保証でしかないことを理解したほうがいい。
システムの奴隷になってはいけない

選手は何かを成し遂げられるという自信を持たなければならない。
リーグ優勝でもカップ戦でも何でも良いが、
勝てるという自信がなければプロサッカーという仕事はできない

今回は選手同士のコミュニケーションを増やした。
コミュニケーションというのは、
ありすぎても少なすぎてもダメ。
今回はちょうどいいコミュニケーションが取れた。
今でも監督と選手のコミュニケーションは通訳を介しているので難しいが

自分のプレーに対する責任感が希薄である

ポジティブシンキングに客観性が加わるときに、
平常心は生まれる。
逆に何も信じるものがなくなったときに、
あらゆる可能性が泡となってその姿を消すのだ

すべてのチャレンジに応じられるように、
フィジカルとフィットネスを万全に準備し、
しっかりとディシプリンを正した状態でいることが肝心だろう

偽物は、
いつまでたっても偽物。
模倣はどこまでいっても模倣なのである

私は相手チームによってテーマを変えていた。
選手は毎日の少し違った練習をする中で、
試合に向けての準備をしていたことになる。
言葉でなくてトレーニングで選手は対策をしていたことになる

限界には限界はありません。
限界を超えれば、
次の限界が生まれるのです

優勝候補とか、
ビッグスターのいる国とか、
それは実はメディアが作り上げた虚像に過ぎなかったということ

リスクを冒して失敗したらそれは褒めてやった。
その代わり、
同じ失敗は繰り返すなよ、
と言った。
そうすると選手は成長する

監督が現役のときはこうしたものだという話を聞くのを現役の選手は嫌がる。
そんな戦争前の昔話でしょ、
と。
・・・選手は昔話は嫌いなものだ

いいチームとは、
実は、
大きな集合体(ビッグユニット)における、
小さな集合体(スモールユニット)が、
やるべき仕事を確実にミスなく成し遂げているチームなのだ

私は「4-4-2」「4-3-3」などのシステム論を議論することが好きではない。
いや、
むしろ、
そこに何の発展的な意味も感じない

Jリーグにおけるサッカーは、
まだまだ未完成だ。
厳しい意見を言うようだが、
まず第一にスタジアムに殺気がないのだ。
(中略)雰囲気が、
まるでぬるま湯のようであれば、......

日本とザッケローニという哲学の合体には、
素晴らしい混合物を創造する可能性がある

アイデアが存在する間は常にアクティブになる必要がある。
同じことを繰り返すようになると人間は終わりだ。
今の私には仕事なしの状況が考えらない。
金のためではない。
いつも金は私にとって重要じゃないことだ

(2010南アW杯準決勝、
スペイン×ドイツ、
ハーフタイムで「誰か交代したほうがいいか?
」の問いへの発言)ルールが許すなら全員交代だ

2,3人の選手でシステム的に何かを解決しなければならないときに、
個人的な作戦のミスを犯しがちで、
それが日本代表の恒常的な問題にもなっているのである

美しいサッカーとは何なのか。
(中略)文章で表現するのは簡単だが、
ピッチ上で、
そのサッカーを実現することは難しい

ピクシーことドラガン・ストイコビッチから、
「名古屋グランパスの選手が、
敗戦の後や満足のいく仕事をできなかった後でも、
まるで何もなかったような態度でいることが理解できない」という感想を聞いたことがある

サッカーにおける「スピード」とは何か。
それは、
相手選手より速く走ることだけを意味してはいない。
スター選手の中には足の遅い選手もいる

身体が大きく、
フィジカルに強い選手に対する問題についての回答は簡単なものだ。
重要なことは、
こちらには機動力のある選手がいるということ。
小さくても常に動き回る選手、
積極的で素早くて、......

(南アフリカの祈禱師が画面に映ったのを見て)そんなに効き目があるならおれも南アにいきたい

サッカーは段階を踏んで進歩していかないといけない。
走ること、
戦術、
すべての面でそうだ

サッカーは技術だけではなく、
何かを感じる感覚-遠くを見たり、
位置関係やタイミングを計る目、
チャンスやピンチになりそうだと嗅ぎつける鼻-そういうものが大事だ。
それを育てるためにはまわりの援助が必要だ。
その上で、......

サッカーとは、
トータル的にこれが理想というものがない。
だからこそ魅力的なんだ

本当に強いチームは、
夢を見るのではなく、
できることをやるものだ

監督にとっては、
毎回のトレーニングが選手にとっての試合に相当する

現代サッカーは責任感に基づいていると言っても過言ではない。
責任感のある選手だけが、
プレーできるのだ

戦術は、
自分たちで決めるものではなく、
相手に対して作るもの。
相手がどうくるかによって、
戦術を変えている

ブラジルが一番と決まっているのだったら、
ほかの国はサッカーをやる必要はない。
だから、
サッカーは面白いんだ。
強いと言われていても、
彼らが常に勝つわけではない

リスクを負わないチャレンジはない。
そういう日本人に欠けている哲学の部分を埋めたいと考えていた

賢い=できるだけ経済的という意味だ。
自分勝手なプレーをせずに、
とにかくシンプルなサッカーを心がける。
日本にも多かれ少なかれ賢い選手はいるが、
例えば先が読めるような選手が真のクレバーなプレーヤーといえるだろう。
5秒先を読めれば40メートルのダッシュをしなくてもいいはずだし、......

自由を与えられた選手は、
いつどこでどのようにプレーするか自分で判断しなければならない。
・・・自由を与えられて何かできる選手と、
何もできなくなる選手がいる

誰の真似もする必要はない。
自分達の道を探しなさい

アイディアだ。
監督にとって大事なのはアイディアだ

若い選手に言いたいのは、
サッカー人生は短いということです

イミテーションを繰り返しても、
彼らを超えることはできない。
日本はコンプレックスから開放されて、
自分たちのストロングポイントを自覚するべきだ

もしパラグアイに勝ちベスト8に進んでいたならば、
日本のサッカーは、
世界的ステイタスを手にして一歩前進どころか、
2キロ先に前進していただろう

サッカーというものは紙に書いてすべてを説明できるものではない。
いろいろな情報やビジョン、
アイデアがあり、
それらが全部混ざって成り立っているものだ

日本ではスタジアムにファンが溢れたとしても、
彼らは礼儀正しく、
ピッチ外もとても平和だ。
…フーリガンのいないスポーツ国家は理想ではないか。
日本人はそのことに誇りをもっていい

自分が誰かよりも弱いことを実際に認めなければ、
日本人は、
自分が劣っていることを認めないだろう

岡田監督は、
大切な何かを日本代表へと持ち込んだ。
そして、
ためらいなく中村俊を外した。
おそらく岡田監督以外なら誰も彼をスタートのメンバーから外すことはできなかっただろう

オランダ人は長身ではあるが、
肉体的な特徴や長所を含めて日本人に近い。
日本のモデルとなるべきである

他人に責任を押し付けているならば、
サッカーという仕事をすることはできない

敗北は最良の教師である、
と言われる通りだ。
だが、
「だから明日の試合で負けたい」とは私は言えない

スカパー!の1ヶ月は悪くなかった。
しかし、
ナマ放送で、
試合後に何か気の利いた面白いコメントをというプレッシャーがかかると、
ゲームに集中できない

ご存知かもしれないが、
監督時代の私は、
PK戦になるとロッカーへ引っ込んでいた

1点負けていたって、
まだ試合には負けていない

玄関を出入りするときに毎回つまずいて、
転びそうになるならば、
それはドアが悪いのではなく、
つまずく方に問題がある

あまりにエレガントなプレーヤーは難しいかもしれない…美のために死を選ぶという選択はあるが、
死んだ者はサッカーができない

日本の最大の長所は機敏性である。
私が日本代表監督に就任した際、
それを最大の武器として期待し計算していた。
実際、
(中略)それは、
世界が「まるで忍者のようだ」と表現するほどのものだった