名言大学

異を唱えることができないというところまで徹底的にやりますからね

支配的な経済力を持っているというのは、
すごいものだなと思います

生涯そいつが生活していく場所を全部奪って取ってしまうということを社会は実際にやります

あいつに悪い待遇をした覚えはないというふうに、
いつでも言えるようなやり方です

文化の事業は、
いいことをしているつもりでやっているんですよ

どういう目の使い方をすればいいかというと、
それは、
「中流の中以下の人が、
どういうふうになってるかな、
どう考えてるかな」ということだと思います

今の年寄りは、
体のほうだけ成長というか、
老いていって、
寿命は延びていって精神のほうは成長しないです

テレビだって、
危なっかしいもので、
ほとんどなにもしてないのと同じじゃないか、
と思えることもあります。
事業をしてるとも、
ちょっと言いにくいんじゃないでしょうか

芸術とは、
ある意味で善悪を超えたところで咲く「花」である

弟さんは、
ぼくらにいろいろ説明してくれました。
木彫とか、
金彫とかいろいろありますけど、
そういう作品を突き詰めていくと、
結局何も彫らないのがいちばんいい、......

芸術は蓄積された労働に比例して評価が上がるものではありません

詩とは何か。
それは現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、
書くという行為で口に出すことである

重要なことは、
積み重ねによって着々と勝利した、
ふりをすることではなく、
敗北につぐ敗北を、
底まで押し押して、
そこから何ものかを体得することである

決して悪いことをしたって、
どこにも欠陥があることをした覚えはないって、
いつでも言えるようにできてます

それは美点としても弱点としても自分はそういうのになっているよ、
ということです

何かをやって、
それが自分のものになっていたら、
その人は必ずそういう人間になっている

自分の専門としていることに、
自分は影響されていないと思っているかもしれないけど、
それは大嘘です

真ん中を「含んだ下」です。
「“中以下の人がこれからどうなっていくか」を、
ひとつ、
主眼にして、
生きてる今を考え、
それを広げて自分のやってることに関連づけるんです。......

それが、
その「とき」を本格的に観察し、
解明する場合に、
機能的にいちばんいいと考えています。
人事問題から、
経済問題まで、......

いじめる子どもと、
いじめられる子ども、
どちらも心が傷ついている

いい生き方とは、
自分が持って生まれた運命や宿命に素直に生きていくことではないか。
では、
運命や宿命とは何かといえば、
その人と母親との関係で形成されてきたものだと思うのです

だからむしろ、
「ただの人間」というのに自分を直さないと、
いつの間にかへんてこりんなことになっちゃう

何も知識の専門家だけを、
「専門家だ、
あの人は」と言う必要もありません。
だけど、
知識の専門家はテレビに出てよくしゃべって、
「すごいな」と思われる機会も多いでしょう

利害ばかり考えていたり、
言っていたりすると何となくそれが全体ににじみ出てきて、
相手にもあまりいい印象を与えないかもしれません

僕は男女問題に限らず、
一般の人間関係においても、
いい関係かどうかを判断する基準というものを持っています。
それはお互いが言いにくいことをきちんと言えるかどうかです

子どもの成績の良し悪しにかかわらず、
親は子どもをしっかり観察し、
子どもが自分に合った学習方法を見つけるのを手伝ってやることが大事だ。
なぜなら、
学校を卒業し、
実社会に出たとき、......

「偽の厳粛さ」のくだらなさ、
いやらしさ、
空虚さ。
それを生徒はちゃんと見抜いています。
だから感受性が強くて鋭い子どもほど学校が嫌になる

市民運動をやっている人たちは、
自分たちで不安感や恐怖感を作り出しておいて、
雰囲気でものを言っているところがあると思います。
開かれているようでいて、
閉じた集団なのです

世の中に出ることはいいことか

大勢の人と交わることは必要か

学校なんかに期待する親は、
大きな間違いを犯している

子どもが可愛くてたまらず、
なかなか子離れできない母親に限って虐待に走ってしまう

教養については、
学校や学歴がどうだということとは全然関係ないと思います

文化が高級だとか、
いい学校と言われる学校を出れば優秀だとか、
そういう馬鹿なことを言っているやつはダメだということになります

東京大学の先生だから、
教養があるかというと、
それは全然違うことなんです。
東大の先生は、
知識はあるに決まっているわけで、
それは「専門的に」あるということです。......

先生だったら先生が、
親なら親が、
「自分が子どものときにどうだったか」を忘れてるんじゃないか

帰するところ、
最も重要なことは何かといったら、
自分と、
自分が理想と考えてる自分との、
その間の問答です。
『外』じゃないですよ。......

ひきこもって、
何かを考えて、
そこで得たものというのは、
「価値」という概念にぴたりと当てはまります。
価値というものはそこでしか増殖しません

自分の時間をこま切れにされていたら、
人は何ものにもなることができません

学校などというものは、
適当にさぼりながら何とか卒業するくらいでもいいのです。
重たく考える必要はありません

もし、
知識を、
「ほんとうの知識」として獲得できるとすれば、
知識を獲得することが同時に反知識、
非知識、
あるいは不知識というものを包括していくことなんです

本当に教養のある人というのは、
どういう人のことを言うか。
それは要するに、
日本の現在の社会状況、
それに付随するあらゆる状況が、
どうなっているかをできるだけよく考えて、......

何でもいいから気がついた時から、
興味のあることに関して「手を動かす」ということをやっておく。
何はともあれ、
熟練に向けて何かを始めるところにこぎつけてしまえばこっちのものです

書いたものを読んでくれる人がいなくても、
うまく自分の考えていることや感じていることが文章のなかで言えていたら、
それが自分の慰めになるということをやがて発見しました

品格とか愛国心とか武士道精神といった復古的、
懐古的なやり方は、
このかつてない新しい社会の状態に対して通用するでしょうか。
僕は復古的な考えかたは通用しないと思っています

いつもと同じようにしていて、
でも心の中ではちゃんとわかってるという状態、
それでいいんです

「お前、
今日は何かあったんじゃないか」とか、
そんなことは聞かなくていい。
そんなことを言うと、
今度は話がもつれてくるから、
聞いたりなんかしないでいいんです

「あ、
学校で何かあったな」ぐらい、
親だったらわかります。
そういう子に対して親のほうは、
いつもと同じように扱ってやれば、
それでいいわけです

だいたい政治だって外国をいじめるのに一役買っているわけだし、
国自体がそういうことをしてるから子どももそうなってきたんだ、
という理屈までくっつけて言わないと、
話にならないんです

先生だけじゃなくて、
社会的にうんと偉い人というのは、
いじめについて、
そんなによくわかっているわけじゃないと思います