名言大学

勝負の世界に生き抜くには、
自分のスタイルを保持しなければならない

幹線道路を行くようなコースで競争したってしょうがない。
自分だけの生き方を作らないとしょうがないだろう

負け越しでいいよ。
六勝九敗でいいと思うなボクは。
ただし、
その勝った六番のうち、
二つか三つは横綱大関といった大物を食ってなきゃダメだよ。
その上での六勝九敗ならいいということさ

全勝を目指しちゃいけないんだ。
人生そんなに上手くゆくわけはないし、
全勝を目指す人は、
弱いところがあってね、
1敗しただけなのに折れちゃうことがあるんだ。
人生、......

もっとも、
誰しもその程度の不幸にはしょっちゅう見舞われるもので、
これもお互いさまであり、
他人を不快にさせる快味を自分が味わうときのことをおもえば、
やむをえないという考え方もある

敗戦直後の一瞬は、
金持も貧乏人も差がなくて、
全員が衣食住にこと欠く有様だった。
また、
遵法者も非遵法者も、
つまり堅気もやくざもほとんど差がなく、......

自分は合わないと思い知っていた。
しかもなお、
学校が港のように見える。
お前は何か、
と問われて、
学生です、......

何もかもが上手くいくはずはないのだから、
何もかも、
上手くいかせようとするのは、
間違った方法論だ

どの道でもそうだけれども、
プロはフォームが最重要なんだ

一人では、
やっぱり生きていかれない。
他者が居ない分だけ幻想が繁殖してくる。
自分の病気はここから発していると思う

自分の関心に他人を参加させようとすることを、
一応、
やめてみよう

私は小さいときから他人と歩調を合わせることが下手で、
ずっとはずれ者であった。
はずれ者というやつは、
劣等感に苛まれると同時に、
動物の本能で、
なんとか楽しく生きていくために、......

群れから離れて一匹狼になると、
自分を否定していたのでは辛すぎてかなわない

自分がこれ以上孤立しないために、
他人と自分との接点、
共通点に、
できるだけ細心の眼を向けている

てっとり早くいえば、
他人を我が身と思う。
自分の劣等感が、
この場合、
他人の弱さを知る感性の武器になる。
けれども、......

考えてみると、
これまでのところ私が心から執着していたのは、
生きるという方角よりも、
生きられない、
という方角に属することにあったのであり、
にもかかわらず、......

心のままにまっすぐ砂漠へ踏み込んでいって、
飢えるか狂うか、
生きられぬ段階に至るまでの、
生きられぬことの葛藤のプロセスこそ、
生きるということではあるまいか

進歩発展が非常に良いことだと考えて、
そのことに意気込んでいるうちは、
人間は爛熟に至らないんだよ。
人間は子供をつくったときに、
おのれのいのちの「原点」に戻るわけだけど、
そのとき余裕を持って戻れるかどうかの差が、......

お互い見ず知らず同士で売ったり買ったりしているのだ。
だから商品が画一的になる。
問題は値の安さや、
品物の新しさということになり、
自分がどうしてこの品物を手にしなければならないのか、
自分独特の納得がいかない

表面はすこしも実直ではないが、
体質としては農耕人的で、
毎年、
同じ場所で種をまき、
やがて収穫を得る、
その反復をつづけていくことを軸にして生きている

私が自分の身の内にひきこんで、
本気で検討をはじめるのは、
反復を非常に長く続けて、
よかれあしかれ我が肉と化してあるようなことに限られるのである。
それも非常に時間がかかる

昔、
映画館には気持よく泣くために行くような感じがあった。
今は、
泣けるような映画がすくない。
もちろん、
泣ける映画がいい映画だといっているつもりはない。......

どの人物もおおむね立派なことばかりやっている。
幸せも不幸も浅い足跡しかつけず、
人々の目標も、
普通に生きられればそれでいい、
というふうに変ってしまった

日本人の主体は、
規範じゃなくて、
心なんです。
千変万化する個人の心

心というものを軸にしている以上、
バランスが重要になります。
どんなことであろうと、
いつもバランスをとっちゃう。
バランスさえとれれば怖いものはない。
正確な認識など必要ないのです

私はおのれ自身を苦笑することをだんだん本格的に覚えて、
劣等生として微塵も揺るがなかった

才能で世間に出、
それで自立している人は、
まず自分の才分が世間とフィットしている偶然を喜ぶべきで、
世間が何の関心も示さない部分、
或いは、
金銭を払うほどのことはない部分に、......

他の皆は、
ずうっと先を歩いているんだ。
自分だけ失敗して、
何の実りもなしにうろうろしている。
この先逆転のチャンスもない。
そういう答えに直面しながら、......

この世に在るものは自然の定理だけであって、
それが善いか悪いか、
好ましいかうとましいか、
変革したいかどうかというようなことは、
ごく重要なことではあるが、
結局は感慨の範囲を遠く出ない

立派な一生も愚かな一生もさして変わりはない。
人は悔いを残さないように努力し、
その努力はそれなりに収穫があったようで、
もちろんそれはいいのであるが、
とことんの所ではやはり変わらない。
この世は自然の定理のみでなんの愛嬌もないのである

私は転々と居所を変えた。
そうして、
気がついてみると、
自分の来し方すらよくわからなくなってきている。
もうひと息だ、
という気がどこかでする

もうひと息、
混濁して、
何が錯覚か、
何が錯覚でないか、
判定のつけようがないときまれば、
あとに残る物は執着だけだ。......

君にとって家庭とは何か、
と問われたら、
自分の根のようなものだ、
と、
答えるでしょう。
自分の根のようなものになっていて、......

昔、
大嫌いだったのは浅草のことを書いた小説だ。
浅草に住んでも居ない人間が、
ちょいとのぞきにきて、
自分はインテリ、
浅草は庶民、......

例外にひるまず、
どんな例外にも身体が反射的についていくことができるかどうか

いつでもなかなか醒めている連中がいて、
ババ抜きゲームを興趣ゆたかに盛大にさせ、
自分たちはいつのまにかあがって、
ババを敗者たちに残していく。
株では、
今までいつも大衆がこの役割をさせられてきた

比較的健康な時代は、
物の値打ちと人の概念が、
わりにひっついているものだ

現代社会は年齢相応にやるように規制されている観があるが、
その眼から見ると、
私などはおっちょこちょいの軽薄男で、
わけのわからぬお化けみたいな存在だろう。
いいじゃないか。
どうせ皆、......

不気味なものというものはやはりこの世にあるのであり、
それどころか、
人間が本当に生きようとすると、
恰好が整わなくなって化け物のようにならざるを得ない。
大仰であろうか

誰だって、
この世に一ヶ所ぐらい思いどおりになるところがあっていい

色川 武大(いろかわ たけひろ、1929年3月28日 - 1989年4月10日)は、日本の小説家、エッセイスト、雀士。筆名として色川 武大(いろかわ ぶだい)、阿佐田 哲也(あさだ てつや)、井上 志摩夫(いのうえ しまお)、雀風子を名乗った。阿佐田哲也名義では麻雀小説作家として知られる。