名言大学

来るものはすべて受け入れます。
あらゆるものが流動的だという自分の考えに忠実でいようと努めているんです。
電話がなければ今あるような私はなかったでしょうし、
テクノロジーの流れに巻き込まれているわけですが、
それに係わるのはあたりまえのことなんです

作品はこれとあれを含まなければならないからこれこれの要素は排除すべきだといった、
作品に対してあまりにも支配的で、
また作品から遊離した見方に固執しないことです。
作品を時間の外で考えないことです

一つの周期的リズムに多少とも結びつけられている音を聴くとき、
私達は必然的に音そのものとは別のなにかを聞いているのです。
音そのものではなく、
音が組織されているという事実を聞くことになります。
禅では非組織、
つまり音自体にとってありのままの音への回帰がありますね

伝えるのではなく、
語り合い、
話し合うのです。
伝達するということは、
常になにかを押しつけることです。
しかし会話の中では、......

様々な芸術は伝え合うのではなく、
互いに話し合っている、
それらが互いに無関係であればあるほど、
対話はより有効なんです

聴衆はいつも理解すべきものがあると思っている。
作曲家が本当になにかを予見していると思いこんでいるんです

欧州では、
人々が絶えず自分の傘を開こうとする傾向にあることもまた確かですね。
人々は文化から降ってくるものを好まず、
真の文化的純粋性に行き着くと信じているのです。
それは疑いもなく幻想なのですがね

周囲の事情が私に回り路をさせた、
それだけのことです。
しかしこの回り路からは間違いなく面白い反響がもたらされるでしょう。
それは必ずしも音楽上のことに限られないでしょうが

私達の生は、
この世への働きかけを必要とするように見えることは確かです。
でも、
まさにこの世に働きかけるために、
影響を及ぼそうとするのではなく、
過ぎてゆくものや生起するものに対して、......

豊かさは、
選んだりふるい落としたりしてではなく、
積み重ねることで生じるんです

私はなにも言わなくなった。
沈黙しました。
すべてがすでに伝わっているのに、
なぜ伝えようとするんでしょう

私は沈黙(サイレンス)に多くの場所を与えています。
それは私が作曲家であるのをやめるということを意味しているのかもしれません。
沈黙は私の代わりに語り、
私がもうそこにいないことを明らかにしているわけです

私達が本当になにものも所有しなくなったとき、
そこに詩があるんです

書物の死は言語の終焉ではなく、
言語は存在し続ける。
私の作品には沈黙(サイレンス)が溢れてきたのに、
やはり音楽があるのと全く同じようにね

私は一つの活動から他の活動へ向かうとき、
最初の活動の記憶を残しておかないようにしています。
自分を閉ざさないために、
何らかの価値や判断の奴隷とならないためにね。
それは私達をゼロへと突き落とす跳躍でもあるのです

空間は時間と同じくらい自由でなければならない。
演奏者は、
互いにくっつき合っていると、
一度に一つのものしか演奏できないし、
非常に複雑なポリフォニーであっても結局一つの同じものしか演奏できないわけです

レコードの次元では、
作品の空間的な性質さえも条件として尊重されません。
レコードではあらゆる音が似通っており、
等距離に聞こえますよね

私は共同作業には常に情熱を感じてきました。
それは、
エゴの習性を一掃するという偶然からの要求にも適った方法なんです

二人の人間が異なった感情をもつとすれば、
それこそが対話を可能にする

私達はものの生の外側にものを測定する手段を次々とうちたて、
そうやって限定した枠の中にそれぞれのものを置き直すのに汲々としているということを、
鈴木大拙から学びました。
禅は、
私達が現実にはこの枠組に収まり切らない状態にあることを教えています

お互いが障害とならないように引き離したものの間に、
何もない事が必要なのです。
その無こそあらゆるものが存在する事を可能にしているものなのです。
ものが互いに浸透し合うという事は、
ものの間に何もないという事です。
従ってなにものもそれらを引き離してはいないのです

私達の経験はいつも複雑なのに、
思考の方法はとても単純なんです。
私達は何かを考えるとき、
音と沈黙、
存在と無といった対立する概念へと絶えず戻ってしまう。
それはまさに、......

二という数だけでなく、
一という数の多様性もまた聴くのです

あらゆるものが規格化され、
繰り返されている現代の文明において、
重要なのは、
一つのものからその複製へと向かうときに、
忘れることです。
もしこの忘却という力を持たなかったら、......

あるがままの現実や、
生じるがままの世界とは、
在るのではなく成るんです。
動き、
変化するのです。
それは私達を待って変化するわけじゃありません。......

生じるということは、
それが対象物(オブジェ)のようにそこにあるのではないことを表しています。
世界は、
現実は、
対象物ではない。
それは過程なんです

論理の元に私達が構築しているすべてのことは、
出来事や実際に起きることに比べて非常に単純化されたことを表しているので、
むしろ私達はそれから身を守ることを学ばなければならない。
それが現在の芸術の役目なんです

瞬時、
私達が流れ動いてゆく出来事を論理的に矮小化しそうになるのを防ぎ、
世界の姿である過程(プロセス)へと私達を近づけることが、
芸術の役目なんです

私は、
音が行くところへ行くに任せ、
音を在るがままにしておこうと努めました。
その結果、
ある連続性へと導かれましたが、
それはクライマックスに到ろうとはしない連続性です。......

音は生きているんです。
音楽とは、
音の生であり、
生への音の参与であり、
そして―故意にではなく―生は音に参与するようになるはずです

連続、
非連続とか、
安定-不安定といった知的な分類に気を取られちゃいけません。
その助けを借りて時間を考えることができると思いがちですがね

大勢の人が私のところへ学びにやってきました。
でも私は一人一人について、
その人がどんな人で、
なにができるかを発見しようとしました。
その結果、
私が生徒になっているときのほうが多いんです

私はできるかぎり大学から遠ざかっていたいと思っています。
大学は政府とあまりにも近い関係にあります。
あなたの国フランスであれば、
役所の許可なしにはなにもできないし、
アメリカでは権限が私的であっても、
いずれにしろ結局同じことですよ

私が樅の木が一本もない森にいるとき、
私の情報は、
樅の木ばかりの森での情報とは違っています。
すべてはまわりの状況と私達の意向によって違ってくるわけです

確かに私達は自由ではない。
私達は仕切られた社会に生きている。
そしてその仕切りについて考える必要がある。
しかしどうしてそれを繰り返し示さなければならないんでしょう。
どうしてハプニングが日常生活の最も束縛的な面をなぞらなければならないのでしょうか

ソルフェージュはまさに、
音が発せられる以前に音を聞きとれるようにする訓練なのです・・・・。
この訓練を受けると、
人間は決まったこの音あの音だけを受け入れるようになります

ソルフェージュを練習することは、
まわりにある音は貧しいものだと先験的に決めてしまうことです。
ですから<具体音の>ソルフェージュはありえない。
あらゆるソルフェージュは必然的に、
定義からして<抽象的>ですよ

レコードは、
景色を台無しにしてしまう絵葉書ですね

感情はあまりにも密接にエゴに結びついています。
私達はエゴによって壁を築きます。
個人を流れのままに、
起こることすべての流れのなかに置くためには、
この壁をつき崩さなければなりません。
嗜好や、......

感情を体験することはできますが、
それをあまり重大に考えないことです・・・・。
それをほうっておけるようなやり方で捉えるんです。
強調しないことです。
それは私がレストランで注文するチキンのようなもので、
私に関係あるのですが、......

私達が感情を大事にし、
感情を強めていけば、
世の中は危険な状態に陥るでしょう。
まさに現在、
社会が囚われているような状態にね

感情を持つことは構いません、
ただしその奴隷にはならないことです

感情は私達が自らの内部に触れられたことを表し、
嗜好は外部に触れられたことを各自のやり方で示すわけです

私は自分の感情から自由になろうとつとめています。
そして自分の感情を殆ど主張しない人のほうが、
感情がなんであるかを他の人々よりずっとよく知っていることに気づいたのです

私達は悲しみの正確な定義がどんなものかということも知りません。
ずっと昔にインド美学は、
悲しみを欲しいものの喪失、
あるいは欲しくないものの獲得によって生じる感情と定義しました

私達は勇ましさの意味も見失ってしまった。
それは他人に対して、
華々しく戦うことではありません。
おそらくニクソン大統領が考えているように戦闘に勝つことではないんです・・・・。
自らのいる境遇を受け入れるときにこそ勇ましさがある。
そうなんです

今までのようにお互いを区別し続けるかわりに、
些細な感情や判断を自慢するかわりに、
自らを他人へと、
私達が暮らしている世界へと開くべきです。
エゴを開放する必要がありますね、
サティやソローがしたように

私が比較的名前を知られているのは、
年齢のせいだと信じているんですよ。
ソローを見てごらんなさい。
彼は44歳で死にました。
彼の作品は、
ずっと後になってからしか理解されなかった。......

恐らく、
音楽と貧乏の間には何らかの関係があるんです。
私達の楽団にありきたりでない楽器が含まれていたのは、
私達が貧乏だったからでしょう。
ドラやウッドブロックを時々借りる事しかできませんでしたから。
もし私が裕福だったら、......

かつて音楽は、
まず人々の―特に作曲家の頭の中に存在すると考えられていた。
音楽を書けば、
聴覚を通して知覚される以前にそれを聞くことができると考えられていたんです。
私は反対に、
音が発せられる以前にはなにも聞こえないと考えています

ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cage Jr.、1912年9月5日 - 1992年8月12日)は、アメリカ合衆国の音楽家、作曲家、詩人、思想家、キノコ研究家。実験音楽家として、前衛芸術全体に影響を与えている。独特の音楽論や表現によって音楽の定義をひろげた。「沈黙」を含めたさまざまな素材を作品や演奏に用いており、代表的な作品に『4分33秒』がある。