【成功者もダメだった?】成功をあきらめるのはまだ早い!偉人の名言に学ぶ、あきらめてはいけない理由
「成功なんてできない」
「凡人の俺にはできない」
「どうせやっても無理でしょう」
「自分には向いていない」
何回もこんな気持ちになったことはありませんか?
そして夢をあきらめようとしていませんか?
でも、まだあきらめるのははやい!
その理由について説明していきます。
目次
この記事を読む前に1つあなたに問いたいです。
それは本当に叶えたい夢・目標ですか?
自問自答してみてください。
「いいえ」ならこの記事は参考にならないと思います。
もし答えが「はい」なら、
この続きを読んで欲しいです。
先に言っておきます!
決して、商材は売るために書いてません。
この記事であなたの心に灯火をつけたいから書いています。
夢をあきらめるのがはやい理由
なぜ、あきめるのは、はやいのか?
それはまだあなたが立ち向かう勇気・熱意があるからです。
本当にあきめる人はそもそもGoogleで
検索してこの記事を読もうともしません。
「大きな壁が目の前にある」
「誰よりも頑張っているのに、結果が出ない」
色々な事情があり、心がネガティブな状況だと思います。
なぜ、夢をあきらめるの?
・環境が悪いから?
・裏切る人間が悪いのですか?
・お金がない・借金があるからですか?
・年齢が原因ですか?
・女性だからですか?
あきらめる理由なんて、
考えれば山ほどでてきます。
ですが断言します。
全部違います。
それは単なる表面上にしか過ぎないです。
あきらめる人は成功するために
絶対必要な「熱意」がなくなったからです。
熱意がなくなれば、挑戦する勇気、自信、逆境を乗り越える行動力。
すべては夢を叶えたいと思う熱意なのです。
波乱万丈の偉人たちの人生
ー想いの強さこそ、夢への原動力 想いの強さの大切さを人生かけて証明した、成功者の物語を3人紹介します。 彼らのエピソードを見て、想いの強さの大佐説さがわからない人はいない。
65歳で大きなチャレンジした男
ある男性は定年退職する年齢で起業を決意しました。
なぜ彼は起業しチャレンジをしたのか?
彼は6歳の時に父親を無くしたことをきっかけで、母親の家事を助けるため始めた料理が美味しいと絶賛されます。
その経験から料理で人を幸せにできる喜びを知りました。
10歳の時になると学校に通いながら農場で働きはじめるが、
仕事が身に入らずクビになります。
この時母から生涯忘れられない言葉をもらいます。
「仕事で大切なのは、ベストを尽くす事」
ここから彼の怒涛の「働き人生」がスタートします。
鉄道会社、ペンキ塗り、弁護士、保険のセールスマン、約40の仕事を経験します。
40歳の時に、ガソリンスタンドのオーナーを任され、そこでビジネスの才能を開花。
ガソリンスタンドに来る、お腹を空かせたドライバーのためにオープンさせたカフェが大繁盛します。
後に人気のレストランになります。
順風満帆だった彼に悲劇が襲います。
レストラン近くの高速道路が移転して、客足が激減。
それがきっかけで、泣く泣くレストランを手放し、無一文になります。
ある日友人の自宅に招かれた彼は、夕食でレストランのメニューで人気だった料理を振る舞いました。
友達たちはその料理を大絶賛。
そこで自分の作る料理の価値を再認識しました。
自分の料理で人を幸せにできる
その気持ちで、全米のレストランに売り込む事を決意。
彼は会社を創業します。
この時、彼は65歳。その強い気持ちをいただいたまま、営業活動を開始。
1009回断られても1010回目で初めての契約を獲得。8年後には600店舗まで拡大しました。
今では世界に24,000店舗以上。日本でも1000店舗を超えます。
料理で人を幸せにできる喜びを知った6歳の少年の時の想いが65歳の彼を突き動かしました。
彼の名は「カーネルサンダース」
ケンタッキーフライドチキンを65歳から世界に広げ、有名にさせました。
「人生はその人の生き様によって
つくられるものだ」
「人生は自分で創るもの。
遅いということはない」
「走るのを止めた人間は、
そこから一気に坂を転げ落ちるものだ」
何歳になっても挑戦しても遅くはないことを教えてくれる生き様です。
「生活保護者」から「成功者」になった女性
彼女は科学技術者の母と航空部門エンジニアの父の間に長女としてに生を受けます。
幼い頃から読書に親しんだ彼女。
学業成績は優秀であり、女子生徒長にも任命されました。
思春期を迎えたころから
母は難病を患い、また父と不仲に。
父と滅多に話すことがなくなり、家庭には常に冷めた状況でした。
大学卒業後の数年間は、放浪時代
彼女が25歳の時、長く病にあった最愛の母が死去します。
恋人とも破局し、悲しみに暮れた彼女は「海外に出てみよう」と決意。
募集されていたポルトガルでの英語教師に応募し、ポルトに向かいます。
ポルトガルで暮らし始めて1年半が経った頃、彼女はジャーナリスト志望の学生であり、最初の夫と出会います。
2歳年下の彼は彼女の稼いだ金を使うなど、最初から問題行動がある人物だったと言われています。
ほどなくしてローリングは妊娠、2人は彼の実家で暮らすことに。
この妊娠は流産に終わりましたが、27歳に2人は結婚します。
翌年に娘が誕生します。
しかしこの結婚は13カ月で終わりを告げます。
彼女は夫の家庭内暴力や薬物などの行動に悩んでいました。
彼女は娘と共にイギリスに帰ることを決意し、逃げるように帰国します。
イギリスに戻ったローリングには行く当てがありません。
すでに再婚していた父との関係は良好ではなく、帰る実家がなかったのです。
なんとか格安のアパートを借り、生活保護を受けながら
娘を育てるシングルマザーとして、今日を生きるのに必死でした。
さらに彼女はうつ病を患い、自殺を考えるほど追い込まれていました。
そんなどん底から彼女を立ちあがらせたのは、
娘への愛でした。
「娘の人生を台無しにしてはいけない」
そこからポルトガル時代からしていた執筆活動を本格的にはじめ、ついに彼女の執筆本が完成。
完成させた執筆本を出版社に送ってもまともに取り合ってくれません。
12社もの出版社に原稿を送るも良い返事は貰えず、ようやく出版社が見つかっても、初版発行部数はたったの500部。
子供を1人で養っていくには十分な収入にはなりません。
彼女の努力が身を結ぶ
イギリスでは500部しか売れませんでしたが、アメリカで5万部発売されました。
するとアメリカで瞬く間に
本は売れて、世界中で大ヒットします。
日本でも大人気本になりました。
その作品はハリー・ポッター 彼女の名は、J・K・ローリング。
人生において情熱ほど、
大切なものはないの
世界を変えるのに、
魔法の力など必要ありません。
必要な力は、
みんなに既に備わっています
人の真価は「なにを持っているか」ではなく
「どう生きているか」に表れる
大きなハンディキャップを乗り越えて
裕福な地主で新聞のオーナー編集者だった父と母の間で生を受けました。
恵まれた家庭で快活に育っていました。
しかし1歳7ヵ月目に、原因不明の高熱と腹痛におそわれ、
一時は医師も見放すほどの重体に陥ってしまいます。
一命だけはとりとめたものの、
後遺症で目と耳は永久に閉じてしまいます。
わずか2歳にも満たない子供が
光と音のない世界を生き抜かなければなりません。
偉大な教師との出会い
6歳の時に、一生のパートナーとなる家庭教師(以後教師)と出会います。
彼女は当時を振り返ってこう言っています。
「それは私の魂の誕生日だった」
教師が来て、30日目彼女と教師は井戸に寄った際に、教師は彼女の手に水を注ぎ、指文字で何度も「water」と綴りました。その「water」が彼女のはじめて覚えた文字となります。
そして彼女は全てのものに名前があることに気づきました。
その翌月には点字の本を読めるようになり、
数ヶ月後には簡単な手紙を書けるようになっていました。
彼女の知性が高かったこともありますが、
教師もまた自分の人生をかけて、
彼女と向き合う覚悟を持っていました。
話す奇跡が実現
11歳になると、彼女は発声法を学びます。
周りからは点字や指文字の妨げになると恐れて非難されます。
ですが教師は常にヘレンに寄り添い、文字のすべてを指文字で通訳します。
そして彼女は言葉を発することができる奇跡がおきました。
16歳、障害者学校ではなく、一般の女子校に入学教師は彼女と同じ学生寮に住み、 彼女の目となり、耳となり、全ての授業に出席し、 講義内容を手の平に伝えました。
彼女は、女子大学に入学してもっと勉強したい夢がありました。
教師も彼女の願いが叶うように全力で支援します。
睡眠時間も割いて、文字通り肉をきざみ骨を削る思いの勉強をつづけ、 また何度も点字本を読むために、指頭には血がふき出るほど彼女は努力しました。
その努力が身を結び、
ハーバード大学附属のラッドクリフ女子大学入学の栄誉を勝ち取りました。
同じ年齢の優秀な生徒なものと同等の成績を残し
視聴覚障害者としては
前代未聞のバチェラー・オプ・アーツの学位を獲得します。
その後世界中に講演
視聴覚障害者の福祉のために声をしぼって叫びつづけていました。 一部の人達から中傷され、一時窮境に立たされたこともありました。
その生涯は幾多の苦難に満ちた道ですが 常に明るい希望とたゆまない努力によって壁をのり越えてきました。
彼女の行動は、多くの視聴覚障害者を勇気づけた
彼女の名は「ヘレンケラー」
教師の名は、「サリバン」
物事を成し遂げさせるのは希望と自信です
もしも、この世が喜びばかりなら、
人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう
諦めずにいれば、あなたが望む、
どんなことだってできるものです
人生はどちらかです。
勇気をもって挑むか、棒に振るか
時間は有限
「ふむふむ、諦めないことが大切なんだな」
そう思った方、「甘い」
大切なことを忘れていませんか?
そう、人生にはタイムリミットがある。
長生記事も残りわずか。 最後まで読めば価値観が変わる。 ラストスパート行きます。
本当に大切なことは「今やりたいと思ったことを貫く」です。
みなさんに問いたい。 もし人生が今日で終わると宣告されたら、やりたいことをやり切った人生だと言えますか?
最後に、僅かな人生を果敢にいきたある女の子のエピソードをご紹介。ハンカチの準備はいいですか。
わずか4歳の少女が、自ら道を切り開く
彼女は4歳でレモネードを売り始めました
当然ビジネスの経験はありません
しかし初日で24万円ほど売り上げました
少女はその売上を小児病院に寄付しました
実は彼女は小児ガンを患っていました
自分の命がいつまで続くかわからない状況の中で、
自分のため、そして、小児ガンで苦しむ他の多くの子供たちのために、
寄付金を集めるためにレモネードスタンドをやりたい、と
両親の反対を押し切り販売をしました。
わずか4歳の少女が、自ら道を切り開こうとしました
そんな彼女をよく知る人たちが、レモネードを買うために押し寄せました
彼女の無謀な夢を応援するために。
彼女のレモネードの噂は広まり、支援の輪は広まった。
アメリカのテレビでも取り上げられるようになり、
彼女を支援しようという声はいつしか全米に広がりました。
誰もが彼女の奇跡を祈っていました。
しかし現実は時に厳しく、残酷な結末を見せます。
2004年8月、彼女は天国へと旅立っていきました。
少女の営業で小児がん研究のための寄付金を募る団体「レモネードスタンド」が発足し
今を生きる子供を支援している。
誰かのためにという、少女の想いは天国からも今なお届いています。
彼女のお母さんはこんな言葉を残しています。
娘は癌との戦いに勝ちました。
なぜなら、私たちに残してくれました、素晴らしい希望と感銘を。
まとめ「諦めず、今を大切に、強く生きろ」
みなさんに伝えたいメッセージです。 悩んで一歩踏み出せない人、人目を気にしたり、自分の可能性を自分で閉ざしている人、迷う時間なんてない。 いますぐ、行動しろ!
参考文献
- https://helenkeller.jp/publics/index/50/
- http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/keller.html
- https://keiaigijyuku.jp/2021/10/01/jkrowling-okumanchojya/#h.xzujc0xmb72q