名言大学

音楽に興味を持ったきっかけは、
映画とFEN※FEN・・米軍基地関係者とその家族に向けた英語のラジオ放送

(当時)オリジナル作るヤツがいるんだったら誰彼かまわず口説いてレコードデビューさせるとか、
そういう時代でしたから。
だから僕は何かデビューのために努力したかっていうと、
何もしてないわけですよ。
言ってしまうと、
「運」

僕はこの業界でマネージメントっていう仕事からスタートしているんですね

阿木(燿子)は僕の人生のプロデューサーです。
阿木がどこに向かっているかで僕の行動は決まっちゃう

(小学3年生の頃)学校の朝礼で「子どもが歌謡曲を歌うのはよくない」と言われたんです。
だけど僕は『Heartbreak Hotel』をデタラメな英語で歌っていたみたいなんです。
それを聴いた同級生が先生に「(宇崎さんが)歌謡曲を歌っていた」と密告して、
学校に母親を呼ばれたんです。

(中学3年生まで代々木上原に住んでいた頃)近所には、
森山良子さんとか、
かまやつひろしさんとか、
美輪明宏さんとかがいました

阿木燿子に尊敬されたい。
褒められたい。
半世紀前に彼女と出会ったときから、
いつも心のどこかにそういう思いがありますね

今、
ちょっと人の音楽にも、
自分の音楽にもトキメキがなくなってきているんですよね

デビュー当初は鳴かず飛ばずで、
ビアガーデンなどを回ってライブもやりました

歌を作りたいと思うようになったのは、
大学で先輩がやっていたジャズのクラブに入った頃から

僕は曲を書きたいと思っていて、
大学を卒業するまでの3年間で「1日1曲書く」というノルマを自分に課したんです

阿木(燿子)の僕の最初の印象は「蚊トンボのような男」だったって

これを仕上げて、
冥土の土産に、
“自分は音楽的にここまでいったというものを作り上げないと死ねない

高校1年の頃にはトランペットで曲を作っていました

僕は7人兄姉の末っ子なんです

音楽からは離れられなかった

後悔はあっても反省のない人生

中学2年でブラスバンド部に入ってトランペットを担当

(辞めたいと思った事ある?
)思ったことはありますね。
声があんまり出なくなっちゃったときとか。
でも、
めげたりしない(笑)

(小学生時代)自分で音楽をやりたくて、
映画を観た帰りに映画の音楽をスペリオパイプ(リコーダー)で吹いたりしていました。
この頃に聴いた音楽は、
やはりどこか自分のルーツにあるように思います

いつしか、
僕らのライフワークになったので、
年がら年中、
この作品(フラメンコ曽根崎心中)のことが頭の中を駆け巡っています

まず嫁が最初に作品を聴く人ですから。
最初の客ですからね。
提出して聴いてもらって、
「ピンと来ない」って言われたらもうアウトなんですよ。
最近は「これでいいの?
」って言うんです。......

音符ってこう、
落ちてるんですよ。
世の中に、
天から。
目に見えないだけで

大学時代に周囲の友達や先輩、
親兄弟にも誰かれなく「詞を書いて」って頼んでいたんです。
阿木(燿子)もその中の一人だった

今はメロディー先行で作っているから、
自分でまず曲を書いて「ダメだな」と思ったら捨てる

本当は作曲家になりたいっていう気持ちがどこかにあった

もう生まれ変わりたくない(笑)。
阿木はもう解脱してますからね。
この人はもう生まれ変わってこない。
だから僕は生まれ変わってくると孤独になっちゃうんで、
生まれ変わりたくないんです

僕は『天から降ってくる音符を受け止め、
映し出す鏡を持たせてもらっているのだ』と考えるようになった。
テクニックや理論も大事だけど、
いつも曇らない鏡でいることが一番

降ってくるものをいただいて、
僕は媒体になればいい、
という諦めを持った時に「こんなメロディができた!」とポロッと出てくる

もの作りは修行のようなもの

作った曲を録音してパソコンなどに入れて、
自分で聴いて、
客観性を持つことが大事

運と縁っていうのはすごく大事だと思う

これから作曲を目指す人に言いたいのは、
まず、
たくさん書いてねってこと

歌を歌う仕事を30数年やってきて、
自分のことをしながら隙間に人のことをやっていた。
今は逆転していて、
人のことをやるほうが楽しい

今後の目標は、
百年後に見知らぬところの見知らぬ子供が、
誰の歌か知らずに、
楽しいときにふっと口ずさんでしまう親から聞いた曲、
そういう曲を作ることです

自分が詞を書いてると、
時間が足りなくなっちゃうんですよね。
それで嫁に頼んだら嫁がいい詞を書ける人だったもんだから、
これも運ですよね

僕は歌謡曲を求めている世代というのはあると思っているし、
また歌謡曲を作りたいなと思います

自分は1日1曲っていうノルマを与えたおかげで、
デビューするまでに600曲くらいストックがあった

(曲は)全部授かりものなんですね

宇崎 竜童(うざき りゅうどう、1946年2月23日 - )は、日本の歌手、作曲家、俳優、エンターテイナー、映画監督。京都府京都市伏見区出身。

1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の合間にソロとしても活動する。妻は作詞家の阿木燿子。「作詞・阿木、作曲・宇崎」のコンビで商業主義的な歌謡曲界においても、数多くの楽曲をヒットさせると共に山口百恵の全盛期を支えた。

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