名言大学

犬はよく吠ゆるを以って良とせず、
人はよく話すを以って賢とせず

力足らざれば偽り、
知足らざれば欺き、
財足らざれば盗む

君子の交わりは淡きこと水のごとし、
小人の交わりは甘きこと醴のごとし

面と向って人を褒めたがるやつは、
影に回ると悪口を言いたがる

徳をもって人に分かつ、
これを聖という。
財をもって人に分かつ、
これを賢という

明鏡止水(めいきょうしすい)

人は皆、
有用の用を知るも、
無用の用を知らず

窮するもまた楽しみ、
通ずるもまた楽しむ。
楽しむ所は窮通に非ざるなり

道は小成に隠れ、
言は栄華に隠る

功を以て人に勝つことなかれ。
謀を以て人に勝つことなかれ。
戦を以て人に勝つことなかれ

その生や浮かぶごとく、
その死や休(いこ)うがごとし

自然には差別はなく、
命は等しい

至楽は楽しみなく、
至誉は誉れなし

管(くだ)を用いて天をうかがい、
錐(きり)を用いて地を指すなり

おくらず、
むかえず、
応じて、
しかしておさめず

その耆欲、
深き者は、
その天機、
浅し

いかなる人も、
夢を見ている限り、
それが、
夢であることに気づかない

聖人なる者は天地の美に基づきて万物の理に達する

人の適を適として、
自ら其適を適とせざる者なり

命長ければ、
恥多し

駿馬は、
一日に千里走ることができるが、
鼠を捕まえることでは猫にはかなわない

敬を以てする孝は易く、
愛を以てする孝は難し。
親を忘るるは易きも、
親をして我を忘れしむるは難し

其の愚を知る者は、
大愚にあらざるなり。
其の惑を知る者は、
大惑にあらざるなり。
大惑なる者は終身解せず、
大愚なの者は終身霊ならず

井の中の蛙、
大海を知らず

不測に立ちて無有に遊ぶ

人間がこの地上に立つために必要なのは足をおく余地だけだが、
その余地以外をぜんぶ奈落にまでつづく空間にしてしまったら、
地面としての役に立つだろうか。
立たないではないか。
無用がじつは用の足しになる

坐忘(ざぼう)

大を用うるに拙(せつ)なり

畸人(きじん)なる者は、
人に畸(き)して、
そうして天にひとし

和して唱えず

兄弟は手足、
手足を断てば、
再び継ぎ難い

水の積むこと厚からざれば、
則ち、
大舟を負うに力なし

至人は己無し、
神人は巧無し、
聖人は名無し

憂あれば、
則ち救われず

宰相と為らずんば、
則ち良医と為れ

之を聴くに、
心をもってせよ

其の俗に入らば、
其の俗に従う

内直くして、
外曲がる

吾が生や涯りあり、
しかして知や涯なし

善を為すも名に近づく無く、
悪を為すも刑に近づく無し

無用の用(むようのよう)

死を視ること生のごとし

不言の言を聞く

至言語は言を去る

一人で立てた計画は不完全だが、
二人で立てた計画はもっとよい

無用たらんとつとめた櫟(クヌギ)の木

高きに登るも慄れず、
水に入っても濡れず、
火に入っても熱からず、
雲気をしのいで永久に生きるもの

機械を用いるものは機事をめぐらす

時に安んじて順に処れば、
哀楽入る能わず

荘子(そうし、Zhuang Zi、紀元前369年頃 - 紀元前286年頃)は、中国戦国時代の宋の蒙(現在の河南省商丘市民権県)に生まれた思想家で、『荘子』(そうじ)の著者とされ、また道教の始祖の一人とされる人物である。姓は荘、名は周。字は子休とされるが、字についての確たる根拠に乏しい。曾子と区別するため「そうじ」と濁って読むのが日本の中国文学・中国哲学関係者の習慣となっている。