名言大学

描くのが好きだから。
好きが重なって、
それを努力と言えば努力かな

若い頃は妄想だけで絵が描けたけれど、
今は妄想も直観も閃きもいらない。
体力さえあれば、
勝手に描ける

絵を描きながら、
時々ヤケクソになって画面を壊してしまうことがある

ポスターは自分の個展ポスターしか作らないけれど、
たまにどこからか頼まれて作る場合がある

(自分は)怠けるのが専門

82(歳)には82(歳)のやる作品がある

ハンディがあればあるほど、
やったことがない、
したことがない方法で変わったものが描けるような気がする

僕は努力って嫌いですね

年を取れば肉体がどんどん老化する。
その変化に乗れば絵もわざわざ変化させようとしなくても自然に変化してくれる

生命力っていうのは、
やっぱり自然から吸収しているものが多い

描いた絵が全部売れる事はあり得ない

親が死ぬ恐怖が僕の死の恐怖に繋がってしまって 〜中略〜 それが自分の原点になっちゃってる

絵を描いても、
誰も修正しろとはいわないけれど、
デザイン的な仕事は必ず文句の一言、
二言、
注文をする。
その注文も常識以下の常識の概念だ。......

(作品は)どこがゴールというのがないから、
ゴールまで行く必要がないんですよ。
或いはゴールを越して走ってもいいんですよ

将来画家になりたいなんて全然思った事がない

(どの作品も)描き尽くしたという気分がないんですよ

高校になってから油絵を始めてですね。
でもまだその頃は絵の道に進みたいと思わなかった。
とりあえず郵便屋さんになりたかった

塗り残しや描き残しがあった方が次の作品に入りやすい

中学の時に江戸川乱歩の挿絵を描いてる、
山川秀峰っていう人の挿絵を見て、
挿絵画家になりたいと思って

完璧は世の中にはないと思ってます

小学校の上級生の頃は漫画家になりたかった

絵はマゾにさせる。
自分を追い込んんで追い込んで困らせる

(幼少の頃は)絵本の模写ばかりやってました

作品が未完状態で終わってしまう

僕は一人っ子

理屈じゃ絵を描けない

完成はしたくない、
人間は未完で生まれてきて、
未完で生きて、
未完で死ぬ

どーいうわけか、
今まで描いていたスタイルの絵が、
どうしても描けない。
というよりは、
描きたくないんだなあ

絵を描くという事は、
僕にとっては、
すごい贅沢な遊び

創作意欲はないけど、
惰性で描いてる

目的のために歩く。
例えば買物とか食事とか、
歩くために歩くのではなく、
この辺はアートの発想とちょっと反対ね

引退はしない

生まれ変わったら何になるって?
何にもなりたくないね

絵を早く沢山描くコツは上手になまけることだ

高齢になると欲が消えていきますが、
作品欲だけは増える一方です。
好奇心というのとも違います。
未来からの呼び掛けみたいなものです

都心の中で人工化された環境の中だけじゃ、
どうも(創作活動が)できない

小さい絵を描いていると人間が小ぢんまりしてしまう。
だから大きい絵を描いて、
肉体感覚をいつも体感しておく必要がある

世界の動向は、
具象絵画の復権、
人間と肉体の回復、
物語の再考、
歴史の再考であるが、
日本はこの世界の潮流に全く足並を揃えていない。......

絵を描いて疲れて、
絵で元気になる。
絵は魔力だと思う

芸術は社会を変える力がある

非常に重要で大事なもの、
一番欲しかったものが手に入らないということって、
僕はすごい重要って思うんです

過去に帰れないじゃないですか、
人間っていうのは。
でも絵では過去に帰れるんですよ

最初の絵から順番に全部描き変えていきたい

肉体労働の結果の絵を批評家はそこに精神を持ち込む

ホントのライバルは自分の中にいる、
もう1人の自分ですね

(絵を描く事は好き?
)嫌いと好き、
一緒に混ざってる。
描き始めが嫌いなんだけれども、
描いていく内に好きになる、
その好きが通り越したら、......

絵は牢獄のようなアトリエで描くものではない。
絵は公開制作という広場、
又は舞台で描くものだ

いつも遊びたいし怠けたいし、
できれば絵なんて描きたくないと思ってます

性格に向かないことは、
なるべくしない

(絵を描いた後の)結果を考えない

横尾 忠則(よこお ただのり、1936年6月27日 - )は、日本の美術家、グラフィックデザイナー、作家。 実弟の成瀬政博も画家でイラストレーターで、1997年より『週刊新潮』(新潮社)の表紙絵を担当。長女の横尾美美も美術家。

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