名言大学

楽なものは、
面白くない

(世界のトップミュージシャンたちと渡り合うのはすごくエネルギーが必要ですよね?
)そうですね。
自分のコンディションをいつも同じレベルに保ってないといけないですからね。
やはりステージをやるということは否応なしに全てをさらけ出すわけですから、
かっこよく演奏したいですし、
いい音させたいっていうことですよね

戦中は母親の兄弟がやっていたクラブというか飲み屋さんの蓄音機で、
淡谷のり子や高峰三枝子、
灰田勝彦とかそういう日本の流行歌を聴いていました。
それで戦後になってFEN(極東放送)を聴いていました

(アーティストとしての長い人生の中で常に第一線にいる秘訣は?
)好きなことやっているってことですよね(笑)。
それしかないですよね。
嫌なことやってないですから(笑)

家庭内に親父の琵琶の音やお袋の三味線の音が流れていましたから、
なんとなく音楽的な環境ではあったかもしれないですね。
月に一度くらいは正座をして琵琶を聴かされていましたし、
「お前もやれ」と言われていたんですが僕は琵琶には興味がなかったものですから(笑)

1週間から2週間ぐらいのツアーを毎月ですね。
演奏をやってないと手はいいとしても唇周辺の筋肉が衰えちゃうんですよ。
そこが衰えるといい音がしませんからね

昨年夏ごろにジャキスと久々の再会を果たしたとき、
笑顔からにじみ出る人柄と、
人柄からにじみ出る音がうれしくて、
その場で直接レコーディングとツアーに付き合ってほしいと伝えました

楽器さえあればなんとでもなりますよ(笑)

(性格のいい人は?
)「ゲイリー・マクファーランド」僕のために、
貯金通帳を「これを使っていいよ」と・・・

(チベットについて)人々も素晴らしいですね。
あんな厳しいところで生きているのにユーモアはあるし、
みんな明るいですしね。
それに中国にあれだけ迫害されているのに田舎の人なんか本当に純で素晴らしいですね。
心が豊かって言ったらいいかな

(“良いミュージシャンの定義は?
)「人柄」じゃないでしょうかね。
性格悪くてもうまいプレーヤーはいっぱいいるんですけど、
ただ(性格が)悪いと、
好きになりづらいですよね

ブラジルやアフリカに限らず外国へ行くたびにレコードを買ったりして、
民族音楽をコレクションしたりしましたけど、
チベットについてはお経ぐらいしかないですよね(笑)。
だから音楽的な期待っていうのは何もなかったですね

(最も尊敬する人物、
一番の恩人は?
)たくさんいますけど、
やはりチャーリー・パーカー、
チャーリー・マリアーノ

(アフリカについて)ダイナミックな土地と言いますか、
その広さも含めてとにかく圧倒されましたね。
それからやはり自然が厳しくて曖昧な生き方ができないような場所ですから、
そこで暮らしている人たちも非常にストレートに生きていて、
その姿にものすごく感銘を受けましたね。
ですから、......

(これさえあればご飯何杯でも食べられるオススメのおかずは?
)シャケ

(学校のようにして教えたんですか?
)ええ、
僕の自宅で黒板買ってね(笑)

(子供の頃のニックネームは?
)だあちゃん。
子供の頃は「だあちゃん」と言われたんですけど上京した時「サダナベ」といわれていました。
1965年に(日本に)帰ってから平凡パンチで「ナベサダ」と言われるようになったんです。
“アベサダみたいでイヤだったけど(笑)

まず菊地雅章が「教えてくれ」って来て、
「お前一人に教えても同じだから仲間も連れておいで」と、
最初は週1回15人ぐらいでレッスンをやろうかと思っていたんですよ。
そうしたらそれを聞いてあとからあとから来るものですから週に3日、
1回に20人ぐらい教えていました

練習とは追求。
そして、
本番を楽しむための準備

僕も含めてみんな渡米するまでは試行錯誤だったわけですよね。
「たぶんこうだろう」みたいな。
僕が日本に帰ってきたときもそういう状況だったので一気にミュージシャンたちが僕のところに来て、
あっという間に80人ぐらいのミュージシャンが入れ替わり立ち替わり来るようになって

ゲイリー・マクファーランドはジャズだけじゃなくて、
非常にコンテンポラリーな音楽を彼なりにアレンジしていました。
彼と出会う前の僕はビ・バップ以外には目もくれないような男だったんですが、
ゲイリーの影響でだんだん色々な音楽を聴くようになったわけですね。
ゲイリーのミュージシャンシップと、
一緒にやっていたガボール・サボというギタリストの影響は大きかったと思います。......

高校のときに3ヶ月ぐらいアメリカ2世の将校の英語塾に通ったんですよね。
たった3ヶ月ですが結構厳しい塾で、
それがあったから一般的な会話は全然問題なかったですね

日本のジャズクラブはそれほど数があるわけでもなかったですし、
かといってそういうところは歩合でやりますからお客が5人とか10人となると一晩100円から300円ぐらいにしかなりませんしね

(これまでの人生でミュージシャン以外の仕事はされたことがないんですか?
)ないですね。
バークリー・スクールに留学したときに、
仕事がないときはペンキ塗りなんかはやりましたけどね(笑)

町のダンスホールで一晩100円もらって吹き始めたんです。
「あの坊やが吹くと踊れなくなっちゃうから止めさせろ」って言われるような状況だったんですけど使ってもらって(笑)

(クラリネットを)買ってもらったはいいけど、
あの当時の宇都宮には先生もいませんし、
どうやって吹くのか吹き方もわからないので困っていたら、
僕の通っていた小学校の入り口にある駄菓子屋のオヤジさんが昔クラリネット吹いていて、
親が「そのおじさんのところに行ってごらん」と教えてくれたので楽器を持って行ってみたんです。
それでリードの付け方、......

「ピットイン」の出演はミュージシャンの誇りでもあるわけだけど、
もっとたまり場になって欲しいね。
かつてミュージシャンたちはピットインに出演するしないにかかわらず、
うろうろしながらたくさん集まった。
そこで情報交換をしていた。
いまそういう場所がないからね。......

昔「ピットイン」をテーマにした曲を弟(渡辺文男)のために書いているんだよね。
それをもう少しかっこよくリニューアルした。
「スタディ」の意味は、
ミュージシャンたちがこの曲をチャレンジしてくれたらうれしいなという思いがある

「痛みの度合いは喜びの深さを知るためにある」チベットの格言だね。
自分も感銘を受けた言葉だった

「ピットイン」は日本のライブシーンの中心であって欲しいと常に思っているね。
やはりミュージシャンの最初の目標は「ピットイン」に出ることなので

たまたまこの素晴らしいリズム・セクションが来日して、
ほとんどぶっつけ本番のステージ。
音合わせのときにマウスピースが気に入らなくて、
始まる前に家へ飛んで帰って別のを持ってきたのを憶えているな(笑)

最高を求める気持ちは、
いまだにおんなじだね

お客さんには楽しんで納得して帰って欲しいなと思っていました。
レパートリーにポピュラーな曲をやったり、
サンバのリズムを取り入れたりしたね。
富樫雅彦にレコードを聴かせて憶えさせたこともあった。
堅苦しさをとるのにしばらく時間がかかったなあ

楽器は本来無機質なもの。
だから、
納得できる音になるまでに時間が必要です。
毎日、
時間の許す限り楽器に触れ、
息を吹き込んでいます

リードはとても慎重に選んで、
場合によっては1、
2曲で取り替えます。
1枚1枚個性が違い、
会場との相性があり、
音の持続も違うんですよ。......

日本に帰ってから、
この中(自分のオリジナル曲)の2曲ほど日本のミュージシャンとやってみたんですが、
どこか気分がでない。
あ、
やっぱり違うんだなと思いましたね。
改めて聞くと、......

このまま好きなことを続けていければいいなと思っていますが、
やはり世界中をツアーしたいですよね

僕らは「ここからここへ行くにはどうしたらいいんだろう?
」とわからないながらも何百回何千回と吹いて体で覚えましたよね。
ところが今は「ここからここへ行くにはこうやって歩いて行けばいいんだよ」「ああそうですか」って先に頭で理解してしまってそれでお終い

音楽をやるということは好きなことをやろうとしているわけですから、
練習しかないでしょうね。
毎日楽器と付き合うということですよね。
それは無駄なことはないですから

(サキソフォンを吹かない日ってあるんですか?
)それはありますよ。
ゴルフ行くときなんかは吹いてないですから(笑)。
楽器のない旅もあります

(ステージに上がり続けることが)健康の秘訣でもあるでしょうし、
やはり聴衆とのふれあいですね。
これが嬉しいですよね

渡辺 貞夫(わたなべ さだお、1933年2月1日 - )は、日本のサックス奏者・ミュージシャン・作曲家。栃木県宇都宮市出身。