名言大学

悩んだり、
迷ったりしたときは、
時期を待ち、
状況を観る。
そして外の声を聴いていきましょう。
そして、......

私は多くの方から悩み相談を受けています。
相談者の方は、
もがき苦しみ、
苦難の波を乗り越えようとしている方が多いようです。
しかし、
「乗り越える」のではなく「苦難の波に乗れば」いいのです。......

生きていることは当たり前で生活の中では愚痴と不満が出てないでしょうか

私たちが救われる道は「ありがたい」とおのずから頭が下がり南無阿弥陀仏のお念仏をいただいた時なのです

自分の中に「待つ心」という余裕は必要なのではないでしょうか。
待つことで、
自分と向き合うことができます。
今の自分を余裕もってみる力を持ちたいものですね

ほどよく相手の気持ちに寄り添いほどよく声をかけ必要とされたなら最善を尽くす関係。
これが気遣いではないでしょうか?

なんでこの子はこうなったの?
と責める前に、
その前に、
どこかでこの私の生きかたも問わないといけないのかもしれません。
目の前の人は、
私を映しだす鏡なのですね

昨日までの出来事を切り替えていきませんか?
煩悩を抱えた人の言葉に振り回されないでください。
正しい考えに切り替えていきませんか?
それが「お念仏」です

言っている方は、
ただの「注意」「ストレス発散」かもしれませんが、
受けた方はその言葉が心の傷となって残るのです。
相手にも「心」があることを忘れてはなりません。
相手にも大切な家族があることを知りましょう

人間は追い詰められると、
「最悪」しか考えられなくなります。
そのくらい「きつい言葉」は人間を追い込ませるのです

咲いた花を喜ぶ人は多いが咲かせた根を労う人はない

「私は誰にも迷惑をかけてない」という完璧に生きようとする人に人は寄ってきません。
「お世話になったね」と自分の行動に深く頭が下げられたとき、
周りは「お互いさま」と仲間意識が持てるのです

仏さまは失敗することを問題とはしません。
むしろ「失敗した後、
どう生きるのか」といういつでもやり直せるきっかけをくださるのです。
挫折の経験をしてこそ、
そこに人生の道しるべが自然といただけるのですね

この身に何かが起こってこそ、
はじめて教えに出会えるのです。
そのために、
私たちは苦労もしていかねば気がつけないことばかりなのです

人間関係で苦労したり、
大切な人を失うことにより、
頭ではどうにもならずこの身が「どうにかしたい」と訴えてくるのです

今から「ありがとう!」を奨めるかというと理由があります。
それは、
臨終の際に 「ありがとう」という余裕はありません。
「いつか言う」では遅いのです。
ありがとうはとっておかなくていいですよ。
今から伝えましょう

生まれたことも、
生きていることも意味はないのか?
と悲観的にもなるでしょう。
そうではないのです。
思い通りにならないからこそ学べるのです。
人間はマイナスを経験してこそプラスの意味が問えるのです。......

人間は「自分に限っては長生きする」と思っているからです。
どこかに特別意識があるのです。
ですから怒りもするし、
様々なことで苦しむのです。
いつまでも生きることができると思うから「悩む」のです

人間の価値なんて関係なし。
有能でも平凡でも、
目立っても目立たなくても、
それぞれ重い“いのちを一生懸命生きているのです。
だから、
無理をせずできることだけ地道にしていけばいいのですよ

人間は、
不安になると、
不可思議な力に頼りたいこともあるでしょう。
しかしそれは自分の暗さから目をそらしているからなのですね

運も才能も人望も、
他人がもたらすものではありません。
天がもたらすものでもありません。
自分で見つけ出し、
自分で磨き、
自分で身につけるものでしょう

失敗を怒りや悲しみだけに止まることはもったいないことです。
そうではない。
その失敗で、
他人の気持ちにも目を向ける。
私も同じことの繰りかえしがないように目を向ける。
それだけで成長していけるのではないでしょうか

(嫌なことがあったとき)「この出来事は、
同じ出来事を起こさないために教えてくれた体験」と学ぶ

自分にとって嬉しいことも悲しいことも悔しいことも得したことも損したことも別々の出来事だと思いがちですがすべて一つにつながっているのです

大切なのは人間性でしょう。
真宗の教えは、
特に学歴は問いません。
なぜなら、
矛盾に満ちた人間の感情は一人一人違うからです

一方だけが100%問題があるということではないのでしょう。
もちろん暴力はあってはなりません。
逆切れも心の狭い人の行動です

あなたは誰とも比べることができない『いのち』を生きているのですよ

どんな仕事にしても、
それぞれの思い入れはあります。
しかし、
思い入れがありすぎて、
自分だけの世界を作ってしまうことは怖いことです

私たちは諸行無常の人生を生きています。
すべての存在、
あらゆる現象は生じ、
そして滅する、
私たちもその流れのなかにあります。
ですから自分の力ではどうしようもないことばかりなのです

子供は作るものではなく「預かりもの」です。
仏様から大切な命を預からせていただいているだけなのです

伴侶の「伴」という字は人が半分と書きます。
同等の役割があり、
それぞれできないことを補う関係を持つということです

過去だけでもない、
未来を当てにすることでもない。
今のあなたをそのまま受け取り、
大切にして生きていきましょう

今の出会いに動かされ行動できたということが正直な気持ちであり、
事実なのです。
あなたの「いのちのかけがえのなさ」を大切にしてください

できるだけマイナスイメージのものは見ないようにするのが私たちです。
けれど、
見ないようにしたからといって、
「老」「病」「死」が消えるわけではありません。
大事なのは、
「老」「病」「死」を憎んだり、......

私たちはこの世に生を受けました。
ということは必ず老い、
病み、
死ぬのです。
これは誰もまぬがれることのできない、
いのちの事実です

こんなはずではなかった。
その思いは、
「自分だけは大丈夫」だと思い込んでいるために起こるのではないでしょうか。
そんな私たちに対して、
すべての物事は必ず移り変わるということを、
仏教は「無常」と教えています

私たちは生きる中で思い通りになることと、
ならないことがあります。
七転び八起きという教えは、
また転んでも立ち上がる気持ちが大切ということを教えてくれますが、
7回は転ぶのだということも教えてくれるようです。
つまり結局は思い通りになることのほうが多いのです

何らかの理想や目標をもって生きていこうとするのが私たちです。
とはいっても失敗せずに生きたいと、
慎重にもなります。
「後悔したくない」ということと、
「失敗したらどうしよう」という綱引きで毎日が揺れ動いているのです

人間というものは目や体、
心で体験することで納得しているのです

私たちは長さにとらわれます。
「何年生きることができるのか?
」「これはどのくらい頑張ったらいいのか?
」というのがそうですね。
しかし、
大切なのは長さだけではありません。......

やってしまったこと、
やれなかったこと。
この2つは「ご緑が整わなかった」だけなのです。
それだけなのです。
過去や出来事に引きすられているから辛いのです

煩悩の中でも特に「怒り」「愚痴」「貪欲」の三毒は、
臨終まで燃えさかり消火できません。
むしろ、
人が抱えている煩悩を阿弥陀さまは見抜いておられ、
大悲(だいひ=大きな慈悲)のお心で私たちを包み、
お浄土に生まれさせてくださいます。......

生けるものは全て生まれては死に、
「命」のバトンを受けてきました。
身内だけが大切な子供ではありません。
全ての命は繋がっています

親鸞聖人は「一切の有情は、
みなもって世々生々の父母兄弟なり」とおっしゃいました。
この私は父母だけから生まれたわけではなく、
父母を育ててくれた全ての人々にも目を向けようとおっしゃったのです