結論の出ない会議が二時間続いた日。誰も読まない資料を三時間かけて整えた日。上司の一言で方針がひっくり返った日。そういう夜に浮かぶのは「これ、本当に必要な仕事なのだろうか」という、口に出しにくい問いである。
その問いを、数百年前から言葉にしてきた人たちがいる。風刺の書き手たちだ。彼らは職場を憎んでいたわけではない。むしろよく見ていたからこそ、誰もが薄々気づいていて誰も言わないことを、一行に凝縮できた。笑いは、目をそらすための道具ではなく、正確に見るための道具でもある。
ここに集めた38の言葉は、会社を批判するためのものではない。働くという営みから半歩だけ距離を取り、明日もう一度そこへ戻っていくための道具箱である。刺さるものがあれば、それはあなたの職場が特別におかしいのではなく、人間が組織をつくると必ずそうなる、というだけの話だ。
労働とは何か――働くことの正体を暴く
まずは、働くという行為そのものに向けられた視線から。定義を書き換えるだけで、風景は変わる。
「労働──AがBのために資産をつくるプロセスの一つ。」
── アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』を著したアメリカの作家)
ビアスの手法は単純である。辞書の体裁を保ったまま、中身だけを本音に差し替える。この一行には批判の語も感情の語も入っていない。ただ雇用の構造を、装飾を剥がして記述しただけだ。にもかかわらず読んだ側がひるむのは、普段その構造を意識しないよう暮らしているからである。ときには身も蓋もない定義に立ち返ったほうが、自分が何と交換に時間を差し出しているのかがはっきりする。
「私は仕事が好きだ。何時間でも座って眺めていられる。手放すなんて考えただけで胸が張り裂けそうになる」
── ジェローム・K・ジェローム(イギリスの作家。『ボートの三人男』)
1889年の小説『ボートの三人男』に出てくる一節である。語り手は「自分は人より多く働いている気がする」と嘆いた直後に、この告白をする。仕事を愛していると言いながら、していることは眺めることだけ。先延ばしをこれほど上機嫌に描いた文章は珍しい。自分の怠惰を隠そうとすると苦しくなるが、こうして戯画化してしまえば、少なくとも次の一手は打ちやすくなる。
「現代は労働過剰で教育不足の時代だ。人々は勤勉になるあまり、完全に知性を失っている」
── オスカー・ワイルド(アイルランド出身の作家・劇作家)
100年以上前の指摘が古びないのは、忙しさと思考が同じ場所を奪い合うからである。予定が詰まっているほど、人は「なぜこれをやるのか」を考えずに済む。手を動かしている限り、少なくとも怠けてはいないという安心が得られるからだ。ワイルドが突いているのは怠惰の反対側、つまり勤勉が思考の言い訳になる瞬間である。
「仕事とキャリアの違いは、週に40時間働くか60時間働くかの違いである」
── ロバート・フロスト(アメリカの詩人)
「キャリア」という言葉には、成長や設計といった前向きな響きがある。フロストはそれを時間量に還元してみせた。乱暴な定義だが、自分のキャリア観を点検するには使える。あなたが積み上げてきたものは、本当に質の違いだろうか。それとも、単に投じた時間の差だろうか。
「働きすぎで死んだ人はいないという。だが念のため、危険は冒さないことにしている」
── 作者不明
英語圏で古くから語られてきた冗談で、複数の人物に帰属されるが確定していない。「頑張りすぎて死ぬことはない」という励ましは、しばしば無理を強いる側の論理として使われる。この一言は、その論理をいったん受け取ったふりをしてから、そっと裏返す。過労が現実の問題である今、こういう軽口を許せる職場のほうが健全だろう。
「男たちは、自分の職業がほかのいかなる職業よりも大切だと信ずるか、自分で思いこませる以外に、その職業を持ちこたえることはまず出来ない」
── ニーチェ(ドイツの哲学者)
職業意識とは、ある種の自己欺瞞でもある――ニーチェはそう言っている。ただしこれは非難ではない。その思い込みなしに数十年同じ仕事を続けるのは、確かに難しい。問題は思い込むこと自体ではなく、思い込みを他人にも強要しはじめたときだ。自分の仕事を大切に思う気持ちと、他人の仕事を軽んじる態度は、簡単に地続きになる。
出世という名の登山――高く登るほど見えるもの
昇進は報酬であると同時に、新しい職種への異動でもある。そのねじれを、風刺は繰り返し指摘してきた。
「階層社会では、すべての人は昇進を重ね、おのおのその無能レベルに到達する」
── ローレンス・J・ピーター(カナダ生まれの教育学者)
1969年の著書『ピーターの法則』で示された、組織論でもっとも有名な皮肉である。有能だから昇進する。昇進先で有能ならまた昇進する。それを繰り返すと、誰もが「有能でなくなった地点」で止まる。つまり組織のあらゆるポストは、いずれそこで力を発揮できない人によって埋まる。上司の無能さを人格の問題として眺めるより、制度が生む必然として眺めたほうが、腹も立たないし対策も立つ。
「猿は木を高く登れば登るほど、尻をさらけ出す」
── 作者不明
英語圏に伝わることわざである。地位が上がるほど発言は多くの人に届き、判断は記録に残り、欠点は隠せなくなる。昇進とは権限の獲得であると同時に、露出の増加でもある。上に行くほど身なりを整えたくなるのは、虚栄心というより自衛本能なのかもしれない。
「罪悪で出世する者もいれば、美徳で落ちぶれる者もいる」
── ウィリアム・シェイクスピア(イギリスの劇作家)
『尺には尺を』の一節として知られる。評価と人格が一致しないという事実を、400年前の劇作家はすでに舞台に載せていた。真面目にやっていれば報われるという前提を、いったん外してみる。外したうえでなお誠実を選ぶなら、それは報酬への期待ではなく、自分がどう在りたいかという選択になる。そのほうが折れにくい。
「友達は、一方が出世すると、友達でなくなる。」
── ヘンリー・アダムズ(アメリカの歴史家・作家)
同期と飲みに行く回数が減る。相談されなくなる。相手が悪いわけでも自分が変わったわけでもなく、評価する側とされる側という関係が割り込んでくるからだ。この変化を裏切りと受け取ると苦しくなる。構造の問題として了解しておけば、失われるものは減る。
「自分の実力以下の地位につくと大人物に見えるが、自分の実力以上の地位につくと、しばしば小人物に見えてしまう。」
── ラ・ロシュフコー(フランスのモラリスト。『箴言集』)
ピーターの法則を、300年早く人間観察の側から言い当てた一行である。同じ人物が、席が変わるだけで大きくも小さくも見える。ということは、いま「あの人は器が小さい」と感じている相手も、別の席なら違って見える可能性がある。そして自分についても、同じことが言える。
「急成長会社では無能な者が要職にいる。会社の成長についていけなかった人々である」
── ピーター・ドラッカー(オーストリア出身の経営学者)
ドラッカーの診断は冷徹だが、責めてはいない。問題は個人の資質ではなく、会社が伸びる速度と人が伸びる速度のズレである。10人の会社で最適だった振る舞いは、500人の会社では機能しない。急成長企業に必要なのは人材の入れ替えだけではなく、変わる時間と機会を用意することだ。
会議・制度・書類――なぜ仕事は仕事を増やすのか
仕事は放っておくと増える。しかもそれは、誰かがサボっているせいではない。
「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」
── シリル・ノースコート・パーキンソン(イギリスの歴史学者・著述家)
1955年、『エコノミスト』誌に匿名で載った風刺エッセイの一節である。イギリスの官僚機構を観察したパーキンソンは、業務量が減っても職員数が増え続ける現象を数字で示してみせた。皮肉として書かれたはずのこの法則は、いまや締切設計の常識になっている。三日で終わる仕事に一週間与えれば一週間かかる。ならば意図的に短い枠を切るほうが、成果も余暇も増える。
「議題にかける時間は、その金額に反比例する」
── シリル・ノースコート・パーキンソン(イギリスの歴史学者・著述家)
同じパーキンソンによる「凡俗法則」。原子力発電所の建設案は数分で承認されるのに、自転車置き場の設計には45分が費やされる。誰もが意見を言えるからだ。理解できない議題には人は沈黙し、理解できる議題では全員が語りたがる。会議が紛糾しているとき、それは重要だからではなく、簡単だからかもしれない。
「会議の長さは出席者数の二乗に比例し、会議の成果は出席者数の二乗に反比例する」
── 田中角栄(第64・65代内閣総理大臣)
数式めいた言い回しには、妙な説得力がある。実感として正しいからだ。人数が増えれば発言の機会均等を配慮せねばならず、合意の相手も増え、責任は薄まる。この言葉が実用的なのは、対処法がそのまま書いてあることだ。招集リストから一人減らす。それだけで会議は短くなる。
「委員会とは、一人では何もできない人々が集まって、何もできないと決議する場である」
── 作者不明
英語圏で古くから流通する警句で、帰属には諸説ある。合議制の利点は、独断を防ぐことだ。そして欠点は、責任の所在を消してしまうことである。全員で決めたことは、誰も決めていない。会議体をつくるときは、何を議論するかと同じくらい、誰が最後に決めるのかを先に書いておいたほうがいい。
「組織に働く者は、成果に何も寄与しないが無視できない仕事に時間をとられる。膨大な時間が、ほとんど役に立たない仕事、あるいはまったく役に立たない仕事に費やされている」
── ピーター・ドラッカー(オーストリア出身の経営学者)
肝は「無視できない」の一語である。役に立たないと分かっていても、やめる決定には権限と説明責任がいる。だから残る。無駄が生き延びるのは誰かの怠慢ではなく、廃止のコストが継続のコストを上回るからだ。逆に言えば、廃止を安くする仕組み――たとえば定期的に「いま始めるとしたらやるか」と問う場――があれば、無駄は減る。
「今の税制はとにかく分かりにくい。統治機構にしても社会保障の仕組みにしても、分かりにくいことで役人の仕事が増え、役人の数はどんどん増える」
── 橋下徹(弁護士。元大阪府知事・大阪市長)
複雑さが雇用を生むという逆説である。行政に限った話ではない。社内の申請フローも、例外規定を足すたびに担当者が必要になり、担当者は自分の仕事を守るために制度を維持する。ルールを作るときは、増える運用工数まで込みで見積もったほうがいい。
「政治がてきぱきと仕事をこなしていたら、それは独裁政治だ。」
── ハリー・トルーマン(第33代アメリカ大統領)
遅さのすべてが無能の証拠ではない、という切り返しである。合意には時間がかかる。異論を潰せば速くなるが、失うものも大きい。もちろんこれは、ただ遅い組織の言い訳にも使える危うい論理だ。だからこそ、自分たちの遅さが合意形成のコストなのか、単なる放置なのかを見分ける目が要る。
上司と部下――肩書きがつくる人間喜劇
同じ人間でも、席が変われば振る舞いが変わる。喜劇はそこから始まる。
「幹部の仕事と知識とは、あまり関係はない」
── ピーター・ドラッカー(オーストリア出身の経営学者)
一見すると管理職への皮肉だが、裏返せば職務定義でもある。幹部に求められるのは、いちばん詳しいことではなく、詳しい人を見つけて任せ、決めることだ。詳しさで部下と張り合う上司が厄介なのは、能力が低いからではなく、職務を取り違えているからである。
「上司の弱点を指摘するな」
── 黒田官兵衛(戦国時代の武将・軍師)
戦国の処世訓が、そのまま現代の会議で通用してしまう。正しさは、伝え方を間違えると相手の防御反応を引き出すだけで終わる。もっとも、これを「だから黙っていよう」の根拠にすると組織は腐る。官兵衛が示しているのは沈黙ではなく、正論を通したいなら段取りを設計せよということだろう。
「組織に貢献してくれるのは「優秀な者」よりも「能力は並の上だが、忠実な者」の方だ」
── 織田信長(戦国時代の武将)
革新の代名詞のような人物が、組織運営についてはこう言い切る。突出した才能は方向が合えば大きいが、合わなければ組織を裂く。だから多くの組織は、無意識のうちに忠実さを評価している。優秀さが報われないと感じるとき、評価軸が壊れているのか、それとも組織が本来求めているものを自分が見誤っていたのか。区別する価値はある。
「(多くの企業が上手くいかないのは)各地域の担当者がローカルのお客さんではなく、本社の上司を喜ばせようとするからです」
── ジェフ・ベゾス(Amazon創業者)
顔の見える相手を優先するのは自然な反応である。上司は目の前にいて、評価権を持ち、資料の感想をくれる。顧客は遠い。だから資料は上司向けに最適化され、現場の判断は本社の好みに寄っていく。自分がいま作っている資料は誰のためのものか。その一問で、多くの無駄は姿を現す。
「絵を描いても、誰も修正しろとはいわないけれど、デザイン的な仕事は必ず文句の一言、二言、注文をする。その注文も常識以下の常識の概念だ。一体何を怖がっているの、会社の上司の目だ。こういう上司のいる会社は社会悪だよな」
── 横尾忠則(美術家・グラフィックデザイナー)
制作の現場から出た、実感のこもった怒りである。修正指示の多くは、成果物を良くするためではなく、指示した本人が上を通しやすくするために出される。そして忖度が一段挟まるごとに、作品は角が取れて凡庸になる。フィードバックを出す側は、自分の言葉が品質のためか安心のためか、一度立ち止まってみるといい。
「無能で十分に説明できることに、悪意を求めてはならない」
── 作者不明
「ハンロンの剃刀」の名で知られる警句である。連絡が来ない、承認が下りない、自分だけ呼ばれていない――そうした出来事の大半は、敵意ではなく、単なる忘却と手一杯が原因だ。悪意を仮定すると対策は防衛になり、無能を仮定すると対策は仕組みになる。後者のほうが、たいてい問題は早く片づく。
成功と有能の幻想――評判という落とし穴
有能に見えることと、有能であることは別の技能である。
「有能の評判を得たいという欲望は、しばしば有能になることの邪魔をする。」
── ラ・ロシュフコー(フランスのモラリスト。『箴言集』)
評価されるための努力と、成果を出すための努力は、重なるようで重ならない。前者に寄りすぎると、できないことを認められなくなり、学ぶ機会を失う。皮肉なことに、有能に見せようとするほど有能から遠ざかる。「知らない」と言える人が伸びるのは、そういう仕組みだ。
「人生で必要なものは無知と自信だけだ。これだけで成功は間違いない」
── マーク・トウェイン(アメリカの作家)
トウェインが笑っているのは、自信の量が実力の代わりに通用してしまう社会である。同時にこれは、慎重すぎる人への逆説的な励ましにもなる。全部わかってから動こうとすると、いつまでも動けない。知らないことを知らないまま踏み出せる無鉄砲さが、結果的に前に進めることもある。
「成功の80%は、人を出し抜いた結果だ」
── ウディ・アレン(アメリカの映画監督・脚本家)
アレンには「成功の80%は、その場に現れることだ」という有名な言葉もある。同じ数字を使って正反対のことを言えるのが、この人の芸である。成功譚は語り手の都合で編集される。美談として語られるとき、そこから何が省かれているかを考える癖をつけておくと、自分の失敗を過剰に責めずに済む。
「専門家とは、ある狭い分野であらゆる間違いを犯してきた人のことだ」
── ニールス・ボーア(デンマークの物理学者。ノーベル物理学賞受賞)
皮肉の形をしているが、これは専門性についての最も誠実な定義かもしれない。専門家を専門家にするのは知識の量ではなく、失敗の履歴である。だとすれば、まだ間違えていない領域で自信満々なのは危うく、たくさん間違えた領域で慎重なのは正しい。若手が間違える機会を奪う職場は、専門家を育てない職場でもある。
「経済学者とは、昨日予測したことがなぜ今日起こらなかったのかを、明日には説明できる専門家のことである」
── ローレンス・J・ピーター(カナダ生まれの教育学者)
ピーターの法則の著者による、後知恵バイアスへの一撃だ。起きてしまった後なら、どんな結果にも説明はつく。振り返り会議が儀式になりやすいのはこのためで、うまく説明できたことと学べたことは違う。予測を先に文書に残しておくと、この差は目に見えるようになる。
「コンサルタントとは、あなたの時計を借りて時刻を教え、その時計を持ち去る人のことである」
── 作者不明
ビジネス界で語り継がれてきた定番のジョークで、帰属には諸説ある。外部の目には確かな価値があるが、答えの材料が社内にしかない場合も多い。現場の人間が同じことを言っても通らず、外部が言えば通る――その現象が起きているなら、問題は外部にではなく、社内で意見が通る経路のほうにある。
「忍耐――それによって凡人が不名誉な成功を収めるくだらない美徳。」
── アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』を著したアメリカの作家)
美徳の裏側を容赦なく見せる、ビアスらしい一行である。ただし忍耐そのものを否定するのは早い。ここで嗤われているのは、耐えることが目的化した状態――続けているのではなく、動かずにいるだけの状態だろう。同じ場所にいる時間の長さは、それ自体では何の証明にもならない。
それでも人は働く――皮肉の向こう側
風刺の役割は、やる気を削ぐことではない。虚飾を落として、残るものを見せることだ。
「新しいものを考えついた人も、それが成功するまではただの変人にすぎない」
── マーク・トウェイン(アメリカの作家)
社内で新しい案を出したとき、賛同より先に来るのは沈黙か苦笑いである。これは案の質の問題ではなく、新規性の副作用だ。変人扱いされている段階と、間違っている段階は違う。両者を見分ける材料を集め続けられるかどうかが、その後を分ける。
「やったと思えばドジを踏む。それが人間の仕事です。朝に計画を立てても、昼にすることはへまばかり」
── ヴォルテール(フランスの啓蒙思想家)
計画通りにいかないことを異常事態として扱うと、毎日が異常事態になる。ヴォルテールはそれを人間の標準仕様として描いた。前提が変われば、必要なのは自責ではなく修正である。朝の計画は守るためではなく、ずれに気づくために立てるものだ、と考えたほうが実用的だろう。
「仕事は、倦怠、悪徳、欲の三大悪から我々を遠ざける」
── ヴォルテール(フランスの啓蒙思想家)
同じヴォルテールが、こちらでは労働を擁護する。『カンディード』の結末で「自分の庭を耕そう」と書いた人らしい結論である。仕事の価値は成果や報酬だけではなく、日々に形を与えてくれることにもある。皮肉屋がたどり着いた地味な救いとして、覚えておく価値がある。
「やっとサラリーマンも僕ら芸人並のレベルまで落ちてきたなと思います。これからいよいよ 国民総芸人時代 です。「いつ仕事がなくなって給料ゼロになってもおかしくない」っていう時代です」
── 有吉弘行(お笑いタレント)
不安定さを嘆く代わりに、自分たちの側に引き寄せて笑う。売れない時期を経験した人の言葉には、覚悟ではなく慣れがある。安定が前提でなくなった働き方は確かに厳しいが、それを終わりとして語るか、前提として語るかで、打てる手はまるで変わる。
「自由とは責任を意味する。だから、たいていの人間は自由を恐れる」
── ジョージ・バーナード・ショー(アイルランド出身の劇作家)
裁量が欲しいと言いながら、いざ与えられると指示を求めてしまう。それは怠慢というより、自由の値札を見た正常な反応である。裁量を渡す側は、責任も一緒に渡していることを自覚したほうがいいし、受け取る側は、恐れを感じたときに自分がちゃんと事の重さを理解している証拠だと思っていい。
「自分は聞いていない。誰かがやってくれるだろう。組織のエネルギーを燃焼させるために、まずこの二つの言葉を追放しよう」
── 土光敏夫(実業家。元東芝社長、経団連会長)
ここまで組織を笑ってきたが、最後は自分に向き直る番である。この二つの言葉は、誰の口からも出うる。制度の不備を指摘するのは簡単で、そのうえで自分が一歩引き受けるのは難しい。土光の言葉が古びないのは、追放すべき対象を他人ではなく言葉に置いたからだろう。
風刺は職場を壊す道具ではない。職場との距離を測る道具である。距離が近すぎれば理不尽が空気になって見えなくなり、遠すぎれば何も動かせない。笑えているうちは、まだ自分の頭でものを考えられているということだ。明日、この中の一つでいい――招集リストから一人減らす、決裁者の名前を議事録の先頭に書く、返事のない相手に悪意ではなく忙しさを仮定してみる。それだけで、少しは滑稽さが減る。減らなくても、笑えるならそれでいい。