黒船が浦賀に来てから明治維新まで、わずか十五年しかない。その十五年のあいだに、日本は二百六十年続いた仕組みを捨てた。前例はなく、教科書もなく、正解を教えてくれる先輩もいない。何が起きているのかさえ誰も正確には掴めないまま、それでも「自分は何を成すのか」を自分で決めるしかなかった人々がいる。幕末の志士と呼ばれる人たちである。
彼らの多くは、驚くほど若くして死んでいる。吉田松陰は二十九歳、高杉晋作は二十七歳、坂本龍馬は三十一歳。長く生きて完成された知恵を語ったのではない。走りながら、迷いながら、しばしば間違えながら口にした言葉が残った。だからこそ、その言葉は今も生々しい。
ここでは幕末を生きた人物の言葉を三十八、六つの軸で紹介する。志の立て方、学び方、胆力、逆境の越え方、人の見方、そして世評との距離。変化の速さに振り回されていると感じるときほど、彼らの短く濃い生の言葉は効く。
志を立てる――すべてはここから始まった
幕末の言葉を読んでいて最初に気づくのは、彼らが「何をやるか」より先に「何のために生きるか」を決めていたことだ。志という古い言葉は、今の言葉に直せば「行動の順序」の話である。
「志を立ててもって万事の源となす」
── 吉田松陰(長州萩の思想家・松下村塾の指導者)
すべての出発点は志だ、と松陰は言う。裏を返せば、志がないまま積み上げた努力は源のない川で、どこかで涸れる。日々の予定を埋めることと、進むべき方向を決めることは別の作業だ。忙しさは後者の代わりにはならない。
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」
── 吉田松陰(長州萩の思想家・松下村塾の指導者)
夢、理想、計画、実行、成功。この五つは鎖のようにつながっていて、どこか一つが切れると先がすべて止まる。自分の手が動かないとき、問題は実行力ではなく、二段階も三段階も上流で鎖が外れていることが多い。松陰の言葉が今も引かれるのは、この診断がそのまま使えるからである。
「諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」
── 久坂玄瑞(長州藩士・松下村塾の双璧の一人)
大名も公家も当てにならない、名もなき志士が集まって立ち上がるしかない――文久二年、萩を訪れた坂本龍馬に託した武市半平太宛の手紙にある一節である。この書簡は現在も土佐山内家に伝わる。権威が助けてくれないと見切った瞬間、人は自分の足で立つしかなくなる。龍馬が脱藩したのは、この手紙を携えて土佐に戻ったすぐあとのことだ。
「第一番に稚心を去らねばならぬ」
── 橋本左内(越前福井藩士・『啓発録』の著者)
稚心とは幼さ、甘えのことである。この一文を書いたとき、左内は十五歳だった。『啓発録』はその年に自分自身に課した五箇条の第一に、この一行を置いている。誰かがなんとかしてくれるという前提を捨てること。志を立てる前に、まずそこからだと少年は書いた。
「一度志を立てた以上は、何よりもまず目的を定め、少しの時間も無駄にせず、確実な道を歩んで、その目的を達成するように努力するのがよい」
── 橋本左内(越前福井藩士・『啓発録』の著者)
左内はさらに、目標に至る道筋を多くしないことを勧めている。選択肢を残しておくのは一見賢いが、実際には決断を先送りしているだけのことが多い。道を一本に絞れば速く進めるし、絞れないうちは志が定まっていないというサインでもある。
「日本を今一度せんたくいたし申候」
── 坂本龍馬(土佐脱藩浪士・海援隊を組織)
姉の乙女に宛てた手紙の一節である。国家の改造という途方もない話を、身内への私信で、洗濯という日常の比喩で書いた。ここに龍馬の面白さがある。大きな志を大きな言葉のまま抱えていると人は動けない。自分の口に馴染む言葉に翻訳できたとき、志ははじめて行動になる。
学び続ける者だけが時代に追いつける
幕末の志士は、ほぼ例外なく猛烈に学んだ人たちだった。西洋の技術も、儒学の古典も、他藩の事情も、貪欲に取り込んだ。学ぶことは彼らにとって教養ではなく生存戦略だった。
「学は、人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」
── 吉田松陰(長州萩の思想家・松下村塾の指導者)
安政三年に書かれた『松下村塾記』の冒頭近くにある一節で、塾の名を村の名から取ったことを説明する文脈に置かれている。学問とは技能の習得ではなく、人が人であるゆえんを学ぶことだ――そう定義したうえで、塾を村に開いた。松陰にとって学問は身分や立身出世の道具ではなく、生き方そのものの問題だった。
「東洋の道徳、西洋の芸術、精粗遺さず、表裏兼ね該ね、因って以て民物を沢し、国恩に報ず」
── 佐久間象山(信州松代藩の兵学者・洋学者)
『省諐録』にある有名な一節で、のちに「東洋道徳、西洋芸術」と縮めて語られるようになった。芸術はここでは技術・学術の意味である。攘夷か開国かで国が割れていた時代に、象山は「どちらも取る」と言った。二者択一を迫られたとき、選ばずに両方を成立させる道を探すのは臆病ではなく、最も骨の折れる選択である。
「学問は米をつきながらも出来るものなり」
── 福沢諭吉(慶應義塾の創設者・『学問のすゝめ』の著者)
環境が整ってから学ぼうとする人は、たいてい一生学ばない。福沢自身、大坂の適塾では枕を使わずに机で眠るほど読み耽ったと『福翁自伝』に書いている。時間がない、場所がないという条件は、学ぶかどうかの本質的な理由にはならないということだ。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
── 福沢諭吉(慶應義塾の創設者・『学問のすゝめ』の著者)
あまりに有名なこの一句は、実は宣言ではなく問いの前置きである。『学問のすゝめ』はこのあと、それなのに現実には賢い人と愚かな人、豊かな人と貧しい人の差があるのはなぜか、と続き、その違いは学ぶか学ばないかにあると答える。平等を保証する言葉ではなく、学びを促す言葉として書かれている。
「眼を開け、耳を開かなければ、何事も行はれぬ」
── 河井継之助(越後長岡藩の家老)
継之助は江戸や西国を長く旅し、備中松山の山田方谷に学び、長崎で武器を見て歩いた人である。書物だけでなく、自分の目と耳で確かめることを重んじた。情報が机の上に届く時代だからこそ、現場に行った人だけが持てる感触の価値は上がっている。
胆力――腹をくくった者だけが時代を動かす
幕末の言葉には「肝」「胆」という語が繰り返し出てくる。知識でも才能でもなく、決めて動く度胸のことである。彼らはそれを人物評価の中心に据えていた。
「君子に大切なことは、志と肝だけである。志がなく、肝がすわっていなければ、わずかな才能や知識があったとしても、何の役に立つであろうか」
── 吉田松陰(長州萩の思想家・松下村塾の指導者)
能力を磨けば道が開けるという発想を、松陰は正面から否定する。必要なのは志と肝の二つだけで、才能はその次だと言い切る。厳しい言葉に聞こえるが、裏返せば、才能がないことは何の言い訳にもならない代わりに、何の障害にもならないということでもある。
「予、年二十以後、乃ち知る、匹夫も一国に繋るあるを。三十以後、乃ち知る、天下に繋るあるを。四十以後、乃ち知る、五世界に繋るあるを。」
── 佐久間象山(信州松代藩の兵学者・洋学者)
『省諐録』の最終条である。二十歳で一国、三十歳で天下、四十歳で世界。自分が背負っていると感じる範囲が、十年ごとに一段ずつ広がっていったと象山は振り返る。責任の大きさは役職が与えるのではなく、自分の中で引き受けた分だけ広がる。年齢を重ねるとは、そういうことなのだろう。
「断じて行えば鬼神もこれを避ける」
── 西郷隆盛(薩摩藩士・維新の三傑の一人)
もとは『史記』にある言葉である。決意を固めて実行すれば、鬼や神さえ道を空ける。逆に言えば、迷いながら動く人の前には、あらゆる障害が立ちはだかって見える。障害の多さは、しばしば決意の弱さの別名だ。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」
── 西郷隆盛(薩摩藩士・維新の三傑の一人)
『南洲翁遺訓』にある一節。扱いにくい、御しがたい人こそが大事を成す、という逆説である。命も名誉も金も欲しがらない相手には、こちらが差し出せる交換材料がない。だから始末に困る。組織にとって最も面倒な人材が、最も苦しい局面で頼りになるという西郷の人物観がここにある。
「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」
── 高杉晋作(長州藩士・奇兵隊の創設者)
元治元年十二月、下関の功山寺で挙兵したときの言葉と伝わる。集まったのはわずか八十人余り。藩の主導権は保守派に握られ、勝ち目はほとんどなかった。それでも高杉は動き、結果として長州の藩論をひっくり返す。少数であることと、間違っていることは別だと、この一言は教えている。
「人間というものは、棺桶の中に入れられて、上から蓋をされ、釘を打たれ、土の中へ埋められて、それからの心でなければ何の役にも立たぬ」
── 河井継之助(越後長岡藩の家老)
自分はもう死んだものとして考えろ、ということである。失うものがないと腹を決めたとき、人ははじめて本当にやりたいことを選べる。継之助は北越戦争で新政府軍と戦い、戦傷がもとで四十二歳で没した。この言葉を、彼は文字通り生きた。
逆境の底で、何を考えるか
彼らの人生は順風ではなかった。投獄、脱藩、蟄居、病。むしろ不遇の時間のほうが長い。だからこそ、逆境についての言葉に実感がある。
「真の楽しみは苦しみの中にこそある」
── 高杉晋作(長州藩士・奇兵隊の創設者)
楽な状態が楽しいのではなく、苦しさのただ中にしかない種類の楽しさがある、という感覚である。何かに本気で取り組んでいるとき、しんどさと面白さは切り離せない。高杉の二十七年は短いが、密度で言えば異様に濃い。彼はその濃さを楽しみと呼んだ。
「シャクトリムシのように身を屈するのも、いずれは龍のように伸びるためだ。そのためには、奴隷になっても、下僕になっても構わない」
── 高杉晋作(長州藩士・奇兵隊の創設者)
屈することを敗北と考えない。目的が明確なら、頭を下げることも待つことも手段の一つになる。プライドを守るために動けなくなる人と、目的を守るためにプライドを預けられる人の差は、長い時間で見ると決定的に開く。
「人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ」
── 坂本龍馬(土佐脱藩浪士・海援隊を組織)
失敗という出来事があるのではなく、途中でやめたときにはじめてそれが失敗という名前になる。龍馬の企てた事業の多くは頓挫しているが、彼はそのつど次の手に移った。失敗の定義を握っているのは他人ではなく自分だ、という話である。
「過ちを改めるにあたっては、自分から誤ったとさえ思いついたら、それで良い。そのことをさっぱり思いすてて、すぐ一歩前進することだ」
── 西郷隆盛(薩摩藩士・維新の三傑の一人)
反省と自責は違う。誤りに気づいた時点で反省は完了しており、そのあと自分を責め続ける時間は前進を遅らせるだけだ、と西郷は言う。切り替えの速さは性格ではなく、こう考えると決めているかどうかの問題である。
「その人がどれだけの人かは、人生に日が当たってない時にどのように過ごしているかで図れる。日が当たっている時は、何をやってもうまくいく」
── 勝海舟(幕臣・江戸無血開城の交渉役)
順調なときの姿は当てにならない。海舟自身、幕府の中で長く冷遇され、蟄居を命じられた時期もある。評価されない期間に何を積んだかが、次に日が当たったときの高さを決める。今が不遇なら、それは測られている最中だということでもある。
人を見る、人を活かす
倒幕も維新も、一人では成らなかった。彼らは人を見る目と、人に任せる度量について、驚くほど具体的な言葉を残している。
「思い切ってやりなさい。責任は私がとる」
── 西郷隆盛(薩摩藩士・維新の三傑の一人)
任せるとは、失敗したときの負担を先に引き受けると宣言することである。この一言があるかないかで、部下の動きの幅はまったく変わる。逆に、責任の所在を曖昧にしたまま「自由にやっていい」と言うのは、任せているようで何も渡していない。
「人の巧を取って我が拙を捨て、人の長を取って我が短を補う。」
── 木戸孝允(長州藩士・維新の三傑の一人)
他人の優れたところを取り込み、自分の下手なところは捨てる。学びの相手は書物だけではないという当たり前のことを、木戸は方法として言語化している。近くにいる人の一番うまいやり方を一つ盗む。それだけで自分の型は更新されていく。
「己を尽くして人を咎めず。我が誠の足らざるを常にたずぬるべし。我を愛する心を以って人を愛せ。自己を許すが如く人を許せ。人を責めるが如く自己を責めよ」
── 西郷隆盛(薩摩藩士・維新の三傑の一人)
『南洲翁遺訓』の一節で、対称形が繰り返される。人に向ける基準と自分に向ける基準を入れ替えてみろ、という指示だ。多くの人は自分には甘く他人には厳しい。西郷はその向きを反転させることを、道徳ではなく実践の技術として説いている。
「人はみな、さまざまに長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。社会は大きいからあらゆるものを包容して毫(ごう)も不都合はない」
── 勝海舟(幕臣・江戸無血開城の交渉役)
幕府側にも新政府側にも極端な意見の持ち主がいた時代に、海舟は誰も排除しない構えを崩さなかった。社会は自分が思うより広く、自分と違う信念を持つ人がいても壊れない。この楽観が、江戸を戦火から救う交渉を可能にしたのだと思う。
「よく人材技能を鑑別し、すべからく適材を適所に配すべし」
── 岩崎弥太郎(三菱の創業者・土佐藩出身の実業家)
適材適所という言葉を、弥太郎は経営の実務として使っている。ここで重要なのは前半の「鑑別」のほうだ。配置を変える前に、その人が何が得意で何が苦手かを本気で見極める作業がある。見ずに配れば、それはただの人員配置に過ぎない。
「大いに屈する人を恐れよ、いかに剛にみゆるとも、言動に余裕と味のない人は大事をなすにたらぬ」
── 伊藤博文(長州藩出身・初代内閣総理大臣)
強く見える人ではなく、深く身を屈められる人を警戒せよ、という人物眼である。声が大きく強硬な人はわかりやすいが、大事を成すのは、屈辱に耐えて余裕を失わない人のほうだ。松下村塾の最年少組から総理大臣まで昇った男の観察として、これは重い。
世評に惑わされず、自分の道を行く
幕末の志士は、当時ほとんど誰からも理解されていない。脱藩者は罪人であり、開国論者は裏切り者だった。彼らが世間の評価とどう折り合いをつけたかは、SNSの評判に神経を削る現代の私たちにとって、意外なほど実用的である。
「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」
── 坂本龍馬(土佐脱藩浪士・海援隊を組織)
世間が何と言おうと、自分がやっていることの意味は自分だけが知っている。脱藩は当時の重罪で、龍馬は故郷から見れば逃亡者だった。理解されないことと間違っていることは違う、と自分に言い聞かせるための一首だったのだろう。
「行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない」
── 勝海舟(幕臣・江戸無血開城の交渉役)
海舟は幕臣から「幕府を売った男」と罵られ、新政府からは旧幕臣として警戒された。両側から石を投げられた人の言葉として読むと、この一行の乾き方が効いてくる。行動する範囲と、評価される範囲は違う。自分がコントロールできるのは前者だけだ。
「世上の毀誉軽きこと塵に似たり」
── 西郷隆盛(薩摩藩士・維新の三傑の一人)
世間の褒め言葉も悪口も、塵のように軽い。西郷は二度の島流しを経験し、名声も失脚も味わっている。褒められることまで含めて軽いと言い切っているところが、この言葉の芯の強さである。称賛に振り回される人は、批判にも振り回される。
「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は変らざりけり」
── 山岡鉄舟(幕臣・剣と禅の達人・江戸無血開城の使者)
晴れていようが曇っていようが、富士山そのものは変わらない。明治十三年、参禅の帰路に大悟した際に詠んだ歌と伝わり、鉄舟の自筆が現在も残る。鉄舟は幕末、勝海舟の使者として単身で駿府の西郷隆盛に会いに行った人である。天候にあたるのが状況や他人の評価、富士にあたるのが自分の芯だ。
「英雄とは自分だけの道を歩く奴のことだ」
── 坂本龍馬(土佐脱藩浪士・海援隊を組織)
英雄を功績の大きさではなく、道の独自性で定義している。誰かの敷いた道を速く走ることと、自分の道を切り開くことは、能力の種類がまるで違う。前者だけを鍛えてきた人には、後者は怖い。だが幕末に道は用意されていなかった。
「西へ行く人を慕ひて東行く わが心をば神や知るらむ」
── 高杉晋作(長州藩士・奇兵隊の創設者)
高杉は西行法師に憧れながら、自分は東へ行くと詠み、「東行」を号とした。慕う相手と同じ道を行くのではなく、逆の方向へ歩く。敬意とは模倣ではないという、静かで意地の強い一首である。憧れた人の真似をしているうちは、まだ自分の道ではない。
散り際に、彼らは何を遺したか
幕末の志士の多くは、自分が望んだ世界を見ないまま死んだ。刑死、暗殺、病死、戦死。それでも最後に遺した言葉には、不思議と恨みがない。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置きまし大和魂」
── 吉田松陰(長州萩の思想家・松下村塾の指導者)
安政の大獄で処刑される直前、獄中で書いた『留魂録』の冒頭に置かれた歌である。この体は江戸で朽ちても、魂だけは留めておきたい。松陰は二十九歳だった。そして実際、彼が留めた魂は塾生たちに受け継がれ、十年もしないうちに時代を動かす。教育者の遺言として、これ以上のものはない。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
── 高杉晋作(長州藩士・奇兵隊の創設者)
面白いことなど何もないこの世を、面白く。下関の東行庵にある歌碑では、この上の句に「すみなすものは心なりけり」という野村望東尼の下の句が添えられている。高杉の辞世として語られることが多いが、詠まれた時期については研究者のあいだで議論があり、辞世と断定はできない。それでも、世の中を面白くするのは自分の心のほうだという構図は変わらない。
「ふたゝびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」
── 武市半平太(土佐勤王党の盟主)
慶応元年、切腹に際しての辞世である。二度と戻らない歳月をはかなく思っていたが、今はもう惜しくない。武市は一年九か月の投獄に耐え、同志を守り通したうえで死んだ。惜しまぬ、という境地は諦めではない。やるべきことをやり終えた人だけが到達する場所である。
「英雄ではない者が真の英雄である」
── 近藤勇(新選組局長)
新選組は敗者の側にいた。時代の流れから見れば、彼らは古い秩序にしがみついた集団と評される。それを承知のうえで、英雄と呼ばれない者にこそ本物がいると近藤は言った。歴史に名を残すかどうかと、筋を通したかどうかは別のものさしだ、という言葉として受け取りたい。
幕末の志士の言葉を並べてみて改めて思うのは、彼らのほとんどが志を達成していないということである。松陰は塾生の活躍を見ていない。龍馬は明治を見ていない。高杉も武市も、望んだ国のかたちを知らないまま死んだ。それでも言葉が残ったのは、志の価値が「成し遂げたかどうか」ではなく「立てたかどうか」にあるからだろう。立てた志は、本人が倒れても誰かが拾う。今日、あなたが何を立てるかは、思っているよりずっと遠くまで運ばれていくかもしれない。