「(指導者として転機はありましたか?)結婚です。自覚はありませんでしたが、選手たちから「優しくなった」と言われたり、逆に「自分たちのことはもう思ってくれないのではないか」と心配されたりしました」
宇津木妙子
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「(指導者として転機はありましたか?)結婚です。自覚はありませんでしたが、選手たちから「優しくなった」と言われたり、逆に「自分たちのことはもう思ってくれないのではないか」と心配されたりしました」
宇津木妙子
「会社側には「選手がソフトボールを辞めてからも従業員として働けるように指導してほしい。そのかわり練習と寮生活は責任持ちますから」とはっきり伝え、「決断、覚悟、責任」、この3つの言葉を頭に入れて監督生活をスタートさせました」
宇津木妙子
「私は「挨拶、時間厳守、整理整頓、相手に対する気配りは当然のこととして、チーム理念と細かいルールを作り、裏方のことは何でもする、役割分担を明確にする、自分ができない選手だったから、選手のいいところを引き出すようなチームを作りたい」と思いを伝えました。そこでようやく、父は「それなら3年がんばれ。3年で結果が出なければやめろ」と言ってくれました」
宇津木妙子
「ユニチカでも多くの経験をして、つらいこともたくさん味わいました。でも、働くこと、給料をいただくことはこういうことだと身をもって学ばせてもらった。だからこそ、父の言葉がよく理解できました」
宇津木妙子
「ほかの従業員が工場で働いている間に、私たちはソフトボールをさせてもらっている。それを快く思っていない従業員もいるかもしれません。勝っているときは無条件にチヤホヤしてくれる人たちも、何かあればあっという間にそばから去っていくものです」
宇津木妙子
「父の言葉で強く心に響いたのは「企業スポーツは勝たなければいけないが、愛されないと成り立たない」という言葉です」
宇津木妙子
「父は驚き「苦労しているのは知っていたけどまさかそこまで」と涙を流しました。父が泣く姿を見た時、父はなんて弱いんだろうと思い、絶対に迷惑や心配をかけてはいけないと思ったものです。父のその涙が、指導者になってから役に立ちました。人間は自然体でなければいけないということを父から学びました」
宇津木妙子
「でも、私はどうしても監督をやってみたかった。そこで、「実は・・・・」と、高校時代にいじめられて色々な苦労をしたこと、社会人になってからもトイレ掃除や郵便配達をやらされて大変だったことを初めて伝えたのです。私なりの覚悟を伝えたつもりでした」
宇津木妙子
「父の言葉が指導者としての原点です。監督就任を父に相談した時、最初はとても強く反対されました。「選手は自分のことだけを考えていればいいが、監督は、選手の親や学校、企業のことも考えなければならないんだ。そして、何よりも結果が大事。時には社長になり、時には裏方にならないとダメなんだぞ」と諭されました。娘につらい思いをさせたくない一心だったのでしょう」
宇津木妙子
「まずトレーニングコーチとして1か月ほどの指導期間を経て、正式に就任要請をいただきました」
宇津木妙子
「当時の日立高崎は3部リーグ所属の弱小チーム」
宇津木妙子
「日立高崎の監督には1986年に就任しました。引退して実家の埼玉県に帰り、母校や全日本ジュニアのコーチをしていた時、遠征先で、当時の工場長さんから「チームを見てくれないか」と声をかけられたんです」
宇津木妙子