最初の海外公演は昭和51年5月のロサンゼルス・サンフランシスコ公演でした。私は外国へ行っても、英語で歌ったりはしません。日本の舞台とまったく同じ、すべて“北島三郎流

北島三郎の他の名言

歌というのは、一ヶ所(たまに二ヶ所)だけ、聴かせどころ、ピークの部分があります。その部分を感情を込めて思いっきり歌い上げるためには、その前後の箇所を丁寧に、語るように歌い込む。このメリハリが“聴かせるのです
わが家は、私の地方公演が、一年の半分以上も占めるため、普通の家庭よりずっと親子のスキンシップのすくない家庭です。そこで私はある日、地方へ出かけるときと帰ったときは、かならず妻も含め家族の一人一人としっかり握手しようと決心をして、欠かさず実行してきました
私は自分の歌を唄うとき、“隠し味を一ヶ所か二ヶ所、必ず入れておきます。私にしか出せない味を伏せてあるのです
東京近郊で私の公演がある日は、カミさんは義母や弟、妹を連れて「サブちゃん!」を連呼する応援役。声援ばかりかテープまで投げつけてきます。つまりサクラですね。一階の前のほうで叫んでテープを投げたかと思うと、今度は二階席から「サブちゃん!」。いやはや実に頼もしい“私設応援団長でした
拍手が鳴り止み会場が静かになると、いつものように自然に両手が合わさり、祈りの姿になりました。右の手は、私を産んでくれた父と母への愛、左の手は、私を励まし支えこれまで育てて下さったファンの皆さまへの愛、なのです
お茶には茶道、生け花には華道、書には書道というものがあります。日本人の心の歌、艶歌に「歌道」があったっていいのではないでしょうか
昭和二十九年春。青雲の志を抱いて青函連絡船に乗ったあの日こそ、歌手北島三郎の「出発(たびだち)の日」であり、自分一人の力で働き食べていくことを決意した、いわば親鳥からの「巣立ちの日」だったのです
私を支えてくれる、“縁の下の力持ち、一騎当千のスタッフの心からの協力があってこそ、北島三郎の歌と舞台は完成するのです
長年歌手として舞台に立っていますと、その日その日の舞台の雰囲気が手にとるように、わかるようになります。拍手の仕方、掛声の飛び方、お客様の体の揺れ方、それやこれやで、どれだけ熱心に聴いて下さっているかがわかるのです
私が上京すると言った時、母は猛反対。すると父は「俺は長男として長い間したいこともできず、責任ばかり負わされてきた。穣には好きなことをさせてやりたい」と説得したそうです。ただ父は私にこう言いました。「東京へ行って困って帰ってきても、もうお前の田畑はないぞ。それだけは覚悟して行け」

関連する名言

(英語の授業を小学校3年生から始めようと検討していることについて)僕はそれ大反対です。結局、自国の言語でしっかり考える力がない人間が中途半端に他の国の言葉を入れて本質的なレベルが上がるわけがない。国語力を鍛える機会を英語で奪ってしまう

林修

やたらと高い目標は掲げる必要はありませんが、頑張って背伸びすれば手の届く、英語で「ストレッチ」と呼ばれるような目標にすることが求められます

桜井正光

(亀を英語で?)スッポン!

ガッツ石松

(英語の勉強法)一番いいのは、薄いのでもいいから本を読むことじゃないかな

利根川進

英語やドラムはやった分だけ上手くなるんですよ。たがが努力です

YOSHIKI

自分でも理由は分からないのですが、12〜13歳の頃に突然英語が好きになったのです。当時は特に英語を学べる場所も、英語の本もありませんでした。そこで、私は杭州賓館、つまり現在の杭州シャングリラホテルに行った。外国人の宿泊を受け入れるホテルだったからです。そうして9年間、毎朝、無料のガイドとして外国人客をいろいろな場所に案内し、彼らから英語を学びました

ジャック・マー

小さい頃は、祖母が歌う英語の賛美歌を子守歌代わりに聞いて育ちました

すぎやまこういち

(小学3年生の頃)学校の朝礼で「子どもが歌謡曲を歌うのはよくない」と言われたんです。だけど僕は『Heartbreak Hotel』をデタラメな英語で歌っていたみたいなんです。それを聴いた同級生が先生に「(宇崎さんが)歌謡曲を歌っていた」と密告して、学校に母親を呼ばれたんです。

宇崎竜童

英語の「Good luck」はなかなか大人の言葉。「頑張っても限界がある。気をつけろよ」という思いやりが伝わってくる。

宋文洲

(オーストラリア留学で大変だったことは?)1番大変だったの は英語についていく事でした。レポートの量も多く、提出期限が重なってたり、または試験の前の日だったりしたので時間の管理を1番大切にして乗り切りました

白川優子

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