試みに一例をあげていはむ歟、彼の曲亭の傑作なりける『八犬伝』の中の八士の如きは、仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり。作者の本意も、もとよりして、彼の八行を人に擬して小説をなすべき心得なるから、あくまで八士の行をば完全無欠の者となして、勧懲の意を偶せしなり。されば勧懲を主眼として『八犬伝』を評するときには、東西古今にその類なき好稗史なりといふべけれど、他の人情を主脳としてこの物語を論ひなば、瑕なき玉とは称へがたし

坪内逍遥の他の名言

此人情の奥を穿ちて、所謂賢人君子はさらなり。老若男女、善悪正邪の心の内幕をば洩す所なく描きいだして周密精到、人情を灼然として見えしむるを、我が小説家の務めとはするなり。よしや人情を写せばとて、其皮相のみを写したるものは、未だこれを真の小説といふべからず。其骨随を穿つに及びて、はじめて小説たるを見るなり
俗言のまゝに文をなすときは あるひは音調侏離(しゅり)に失し 或ひは其(その)氣韻の野(や)なるに失して いと雅びたる趣向さへ爲にいとひなびたるものとなりて 俚猥(りわい)の譏(そし)りを得ること多かり
人間という動物には、外に現る外部の行為と内に蔵れたる思想と、二条の現象あるべき筈たり
凡そ形(フォーム)あれば茲に意(アイデア)あり
斯(し)かれば外面に打いだして、行ふ所はあくまで純正純良なりといえども、その行ひを成すに先きだち幾多劣情の心の中に勃発(ぼっぱつ)することなからずやは。その劣情と道理の力と心のうちにて相闘(あいたたか)ひ、道理劣情に勝つに及びて、はじめて善行をなすを得るなり
立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹(ぼたん)、歩く姿は百合(ゆり)の花
よしや人情を写せばとて、その皮相(ひそう)のみを写したるものは、いまだ之(こ)れを真の小説とはいふべからず。その骨髄(こつずい)を穿(うが)つに及び、はじめて小説の小説たるを見るなり
人情を灼然(しゃくぜん)として見えしむるを我が小説家の務めとはするなり
人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり
形容を記するはなるべく詳細なるを要す。我が国の小説の如きは、従来細密なる挿絵をもてその形容を描きいだして、記文の足らざるをば補ふゆゑ、作者もおのづから之れに安んじ、景色形容(けしきありさま)を叙する事を間々怠る者尠(すくな)からねど、是れ甚だしき誤りなり

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