「(リスト・ヘイッキ・リュティ前大統領の戦争裁判での発言)前大統領の時代、我が国は非常に困難な情勢にあった。そのこと考慮してほしい」
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの他の名言
「(第一次ソ連 ー フィンランド戦争「冬戦争」の時の言葉)戦闘能力を失ってからでは、ソ連の全面占領を受けるしかなくなる」
「(五台山 ー 中国における仏教徒の四聖山の中でも最も聖なる山 ー について)仏教徒のローマ教皇、ダライラマの牢獄とはいわないが、現在のすみかだ」
「(1908年7月の日記に記した言葉)中国当局はダライラマをしっかり監視しているようにみえる」
「(最高司令官として国防軍に出した最初の命令文)大統領は1939年11月30日をもって私をフィンランド軍の最高司令官に任命した。勇敢なるフィンランドの兵士諸君!私がこの職に就いた今、我々の不倶戴天の敵が再びわが国を侵している。まずは自らの司令官を信頼せよ。諸君は私を知っているし私も諸君を知っている。また、階級を問わず皆がその本分の達成のためであれば死を厭わないことも知っている。この戦争は我々の独立の継続のため以外の何者でもない。我々は我々の家を、信念を、国を守るために戦うのだ」
「(娘ソフィーへの手紙の言葉)歳と健康を考えれば私は最高司令官の重責など引き受けたくなかった。しかし私は政府と大統領の懇願に膝を折らねばならなかった。私は今4度目の戦争の中だ」
「(フィンランド大統領府前での就任演説での言葉)議長、温かいお言葉感謝申し上げます。誉れ高い議員の皆さんに国難の時に国家の長たる職務の二度目の許しをいただいたことに、私にのしかかる責任を重く感じています。大きな課題は我々の未来を守るために打ち勝たなければならない困難です。今、真っ先に私の心にあるのはもう5年の間戦っているフィンランド軍のことです。議会、政府の支援と我々を支える人々の満場一致によって、我々は独立と国家の存続の維持に成功すると私は望み、そう信じております」
「(マンネルヘイムがツダノフに示した覚書)ソ連はフィンランド国民に対して、自由な政治体制の選択を保障する。その代わり、フィンランドはソ連と敵対する第三国がソ連の領土を攻撃する際に、フィンランドの国土を利用することを断固として拒否し、自国の防衛と両国の安全保障のため戦う。その際ソ連に対して軍事支援を要請する」
「(意見を求めてきたリュティ大統領へ語った言葉)我が軍は健在だ。講和の機会は軍が作ってみせる。貴方は毅然と無条件降伏を拒絶してほしい」
「大統領、気をしっかり持ってほしい。無条件降伏を受け入れれば、未来永劫我が国民は塗炭の苦しみを味わうことになる。絶対に受け入れてはならない」
「(無条件降伏を要求してきたソ連の対応について述べた言葉)我が国との戦闘を早期に終結させ、ドイツとの戦争に専念したいのだ」
関連する名言
「仕事に困難や失敗はつきものだ。そのようなときに、困難に敢然と挑戦し、失敗に屈せず、再起させるものが執念である。できないのは能力の限界だからではない。執念が欠如しているのだ」
— 土光敏夫
「教育とは、人々が知らないことを教えるのではなく、実例によって道を拓いてやる不断の困難な仕事である」
— ジョン・ラスキン
「困難にぶつかると、読書から得た名経営者の一言一言が私の胸に突き刺さった。本がどれだけ私を励まし助けてくれたことかと思う」
— 米山稔
「二度とない人生だから 戦争のない世の実現に努力し そういう詩を一篇でも多く作ってゆこう わたしが死んだら あとをついでくれる若い人たちのために この大願を書きつづけてゆこう」
— 坂村真民
「その政権が、どれだけのことができるかというのは、成立したときのスタートダッシュの勢いで決まるものなんです。困難だが重要な2、3の問題を、就任当初の短時日に片づけて、その実行力を国民や野党に示さなければならない」
— 中曽根康弘
「困難の場合および希望が小さいときには、最も大胆な助力がいちばん安全である。」
— ティトゥス・リウィウス
「この戦争を終わらせにきた!!」
— 赤髪のシャンクス
「諦めることはとても簡単なこと。人生の中で遭遇するさまざまな困難。「自分には無理だ。もういいや」と諦めてしまえばきっと楽になれるのでしょう。でもそれは山を目の前にして登ろうとする努力もせずふもとでただウロウロしているだけ。それでは人生はつまらない」
— 三浦雄一郎
「ロシアでの任務は、赤軍の粉砕と国家の解体だ。共産主義はドイツの将来への大きな危険である。ロシアに対する戦いとは、ボルシェビキ人民委員と共産主義的知識人の絶滅でなければならない。これは絶滅戦争だ。絶滅しなければ、敵を打倒しても30年も立てば、共産主義は再びよみがえるであろう」
— アドルフ・ヒトラー
「ベトナム戦争時代から百戦錬磨のジャーナリストの方々の死を目の当たりにした時。亡くなった後、その方の取材した記録やカメラやPC、さまざまな取材機器だけがどっさりと残った。先輩であり先生でもあった人が今この場にいなくて、物だけがどっさり残っている。それを見ながら、“ジャーナリストとして伝えるべきもの、これからの自分がやるべきこととは何なのか?と非常に考えさせられました」
— 渡部陽一

