「最初にシリコンバレーに来たのは、スタンフォードの大学院で高エネルギー物理学を学ぶためでした。それが1995年で、インターネットは世界にものすごい影響を与えるものなんだと衝撃を受け、インターネットの世界でやっていきたいと志すようになりました」
イーロン・マスクの他の名言
「でも振り返ってみると、それは得策ではありませんでした。CEOとして迎え入れた方はあまり優れた方ではなかったのです。私が思うに、会社の成功は彼にも投資家達にも寄与していません」
「新しくCEOとして雇う方が会社に利益をもたらすだろうと信じていました。CEO業務を他の方に任せることによって、僕はソフトウェア制作や製品監修等、自分の好きなことに専念できると思いました」
「CEOとして具体的に何をすればいいかわからなかったし、投資家も変な人は抜擢しないと思ったし。その道のプロに任せたほうがいいと思ったのです」
「当初は私がCEOでした。最初の一年くらいですかね。でもベンチャーキャピタルファンディングを受けたことにより、私達のビジネスに投資した投資家達がプロのCEOを迎え入れたがったのです」
「初めの方針はメディア関連の会社のオンライン化を手助けするソフトウェアをつくることでした。ニューヨークタイムズ等オンラインサービス化を手伝いましたね。当時はすべてがオンライン化されていなかったので。多くの人がそこに気が付いていませんでした」
「それで兄弟と友人のGreg Kouriと三人で一緒に会社を始めました。それがZip2です」
「学部長は休学を認めてくれました。その時、「君が戻ってくることはないだろう」と言われたのですが、実際その通りとなりました(笑)」
「実は、最初は自分で起業するのではなく、ネットスケープで働こうとしたんです」
「はっきりとやりたいことが明確だったわけではありません。ある時、新しいものを世に生み出すっていいな、と思ったんです。でもそれが起業することなのか、面白いことをやっている会社で働くことなのかはわかりませんでした」
「プログラムをつくったり、ゲームをつくったり、ATARIで遊んだり。6歳か7歳くらいの時にも他のゲーム機で遊んだりしていたので、ゲームをつくるというアイディアはいつもわくわくするものでした。それが初めてのコンピューターで、メモリーは8Kくらいだったと思います」
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「クリントン元大統領の事務所で働いてからは「自分が世界を変えるためにまだまだいろいろなことをやりたい」と思っているうちにもっと勉強したいという気持ちが高まり、結局ハーバード大学院の試験を受けたら一発で合格して入学した」
— REINA
「僕は、高校生のときにイタリアやスペインへ行って、大学の春休みには毎年1か月くらいインドやカンボジア、ベトナムなどアジア辺りを回っていた」
— 箕輪厚介
「東京大学の先生だから、教養があるかというと、それは全然違うことなんです。東大の先生は、知識はあるに決まっているわけで、それは「専門的に」あるということです。教養があることとは違います」
— 吉本隆明
「大学の教授より、むしろ小学生の先生を大事にしなければいけない。小学校の先生が白紙の子供を教えるのだから」
— 田中角栄
「一流大学出て一流企業に行くスタイルじゃない人たちがたくさんいる訳です。その人たちにもチャンスがある時代ですよ。気持ちさえあれば必ず前へいくんですよ」
— 安藤忠雄
「日本の教育費は世界一高い。だから地方に暮らす人は東京の大学に子供をやるより安いからと、アメリカの大学に行かせたりする。これは文明国として恥ずかしい」
— 小柴昌俊
「ちょっと半分サプライズで、こんな名誉なことはない。これ以上の名誉はないと思っている。とりわけ、松下電器の研究所、名古屋大学、今、お世話になっている名城大学の皆さんの大きなサポートのおかげだ。この場を借りて、お礼を申し上げる」
— 赤崎勇
「近畿大学はどんな事にもチャレンジさせてくれます。だから何もしなかったら何もしないなりの人生をチョイスすることになるし、自分で切り開いていく道を選べば、きっと自分を大きく育てるようなそんな大学生活になるでしょう」
— つんく
「ホストクラブで働いてた4年間は本当に無駄でした。大学時代も無駄だったと思うけど、それ以上でした。僕は『苦労は金をもらってもするな』と思います」
— ヒロシ(お笑い芸人)
「大学に入つて何の職業に就(つ)いて、何ほどの月給をもらふかなどといふことは、抑々(そもそも)末のことで、もつと大きなところへ到達しなければならない」
— 新渡戸稲造