「天野宗歩の棋譜を見ると、この人がいかに優れた棋士であり、高い峰であるかが窺える。そして、その棋譜を味わって一番打たれるのは、終局に際して、歩のハシからハシまで、余すことなく参加させて、辛労をともにした駒の全部に勝利の喜びを味わわせようとする配慮が、ヒシヒシと感じられることである」
升田幸三の他の名言
「(加藤一二三 九段のことを)この子、凡ならず」
「ある人は、碁は、しまうときは白黒と二つのゴケに入れるが、将棋は一つの駒箱におさめ、戦い終わると敵も味方もない、といって将棋の美風を讃えた。まったく同感である。将棋は盤上の攻防は峻烈で、勝負そのものはきびしいものであるが、その精神はあくまでも仏心である」
「駒をうんともったときは、おくれている。三歳の童子とはちがうのだから、足りないところで精いっぱいの仕事をしなければならない。僕はいつも、足りない、足りないという感じをもちながら、そういうところで仕事をしてしまう」
「勝負をするときなんでもかんでも、相手に差をつけようとりきむのはよろしくない。勝負の急所は、一手違いで相手を倒すことにある。五手も十手もちがうというのは、どだい自分が勝負すべき相手ではない」
「いよいよ詰む段階になると、つい二手も三手もひらいて勝ちたくなる。安全をねがうのだが、実は一手ちがいでいいという計算が成り立つほうが安全なのだ。何手もちがわせると、欲がからんで、まちがいがある」
「一手残せればいいという考えに立つものは、差をつめられてもなかなかくずれない。自分が劣勢のときにも、ねばりにねばって、なんとか一手ちがいにまで追いついておこうとつとめる。そうしておけば、逆転のチャンスがいつもひそんでいるからだ」
「序盤だけなら、体験がなくても、いわば机上論でも、ある程度はさせる。中盤というのは、そうはいかない。ここは勝敗のわかれ道であり、文字どおりシノギをけずるべきところだ。記憶や、常識や、ごまかしではどうにもならない。その人の持っている力全部が出る場所が中盤である」
「僕などは、どちらかといえば、中盤戦が実にみじかい。序盤に、中盤を越えた考え方をする。そして中盤にモタモタしないように持っていこうと考える。中盤を長びかせることがいいとは思っていないからだ」
「中盤は、人生でいえば中年の難所、その人の人生の結びに見通しをつけるべき局面である。ここでしくじったら、もう取り返しはつかない。出てくる問題も変化が多いし、深い。いちばんその人間の長短がはっきり出るところである」
「大勝負になれるとか、なれないとか、よくいわれることだが、僕は、これは中盤に処するコツを覚えたかどうかということだと思っている」
関連する名言
「私は誰とも争わなかった。争うに値する者などいなかったから。自然を愛し、自然の次に芸術を愛した。人生の火にかざして両手を温めた。その火は今、衰えてゆく。私は旅立つ用意ができている。」
— ウォルター・サヴェージ・ランドー
「死が私の上に立ち、耳元で何かをささやく。その奇妙な言葉について私に分かるのは、そこに恐れの言葉など一言もない、ということだけだ。」
— ウォルター・サヴェージ・ランドー
「滅びたイリオンを越えてヘレネは生き、アルケスティスは黄泉の国から立ち上がる。彼女たちを呼び戻すのは詩であり、死すべき乙女たちに不滅の若さを与えるのも詩である。」
— ウォルター・サヴェージ・ランドー
「名声の門と墓の門は、同じ楣(まぐさ)の下に並んで立っている。」
— ウォルター・サヴェージ・ランドー
「一枚、また一枚と葉が落ち、一輪、また一輪と花が散る。寒い時節に散るものも、暖かい時節に散るものもある。ひとしく咲き、ひとしく散り、それらを育てた大地がすべてを迎え入れる。大地の賢い子である私たちは、命が尽きたとき、その懐に身を沈めることにもっと満足してよいのではないか。」
— ウォルター・サヴェージ・ランドー
「死は姿こそ見えないが、すぐそばにいて、私の八十歳を惜しんでいる。私はこの最後の歳月をそっくり彼にくれてやってもいい、五十年前に過ぎ去ったあの一年と引き換えに。」
— ウォルター・サヴェージ・ランドー
「批評家ぶった口がやかましいこの世でささやかれるあらゆる「きまり文句」のなかで、偽善者のそれが最悪かもしれないが、いちばん苦痛なのは批評のきまり文句だ。」
— ローレンス・スターン
「時はあまりに速く過ぎ去る。私が一字を記すたびに、人生がどれほどの速さでペンのあとを追ってくるかを思い知らされる。」
— ローレンス・スターン
「脱線は、まぎれもなく陽光だ。脱線こそ読書の命であり魂である。」
— ローレンス・スターン
「人間の身体と精神は、上着とその裏地のようなものだ。一方をしわくちゃにすれば、もう一方もしわくちゃになる。」
— ローレンス・スターン