「12歳頃ですが、子方ではないし、大人でもない。一番中途半端な時期です。その時期でも、父は普通の稽古を課しました。私はすごく変声期が長く、声が出ませんでした。大人か子どもかわからない声で謡うのですが、無理をしてでも出せと言われまして。それが父の方針でした。そんな稽古が十代半ばまで続き、15、6歳になりますと、もう完璧に大人扱いされました」
梅若玄祥の他の名言
「かたちだけでも私が父の代理で教えなければならない。病床にいた父の枕元で話を聞いたり、寝ながらでも型を教えてもらったりしました。これが結構勉強になりましたね」
「知らないことはきちんと学んで教えなければならない。わからないことは、父に聞き、先輩に聞き、家にある伝書類も読みました。伝書を読む習慣はその頃につきました」
「彼ら(勘が鈍い玄人)をどう仕立てるのかが課されたわけです。なぜ父がそうしたかというと、私の勉強になるからなんですね。本当に苦労しました」
「素人のお弟子さんは、もう教えるようになっていましたが、23、4になりますと、今度は玄人を教えるように言われました。それも、変な言い方ですが勘が鈍い人を任されるようになったんです」
「祖父から早くに「道成寺」をやらせなさいと遺言があったそうなんです。手塩にかけた子どもで、早く見たかったという思いがあったんでしょう。それで祖父の七回忌に出させていただきました」
「(父は)無理をすることが必要だと考えていたんでしょう。高いところを目指すなら、無理をすることが大事で、それは当然なんですね。何歳だから無理だと考えないで、大人と同じように稽古をし、そういうものだと思ってやっていかないと、将来、本物の稽古にならない。正直に言いまして、それは苦しかったですよ」
「祖父から「石橋」や長刀物、「鷺乱」まで稽古してもらいました。ここまで習えれば幸せなことです。当時は、そんな実感はありませんでしたけれども。こうして、これから能の方に進むという骨格めいたものができるまで、祖父に見てもらい、そこから父に教えられる時代を迎えました」
「祖父自身は、家の当主が最後の稽古は見るべきだという信条があって、稽古の最後は、家督を継いだ父に見せるようにしていました。でもそれは、かたちだけでした。父が口を挟むことは、ほとんどありませんでした」
「私は「家で守って役者は攻めろ」とよく言っています。守りとは攻めでもある。攻守両方なくてはなりません。流儀、家があって、かたちを守る。あとは個々の役者として、皆が攻めていく。そういう状況になれば、能楽界はもっともっと面白くなると思います」
「流儀も、家元制度も無くなってはいけないと思います。特に、能において家元制度は、大変よい制度です。こうして、きちんとしたものを守ることは大事です」
関連する名言
「あいつにとって代わってやろう。」
— 項羽
「文字など、自分の名前が書ければ十分だ。剣も一人を相手にするだけで学ぶに足りない。学ぶなら万人を相手にする術を学びたい。」
— 項羽
「天が私を滅ぼすのだ。どうして渡る必要があろうか。」
— 項羽
「天が私を滅ぼすのであって、戦の罪ではない。」
— 項羽
「富貴になって故郷に帰らないのは、錦を着て夜道を行くようなものだ。誰がそれを知ってくれようか。」
— 項羽
「たとえ江東の父兄が哀れんで私を王にしてくれたとしても、どの面下げて彼らに会えようか。」
— 項羽
「聞けば漢は我が首に千金と万戸の邑を懸けているという。お前に恩をくれてやろう。」
— 項羽
「力は山を抜き、気は世を蓋う。時に利あらず、騅逝かず。」
— 項羽
「君主たる者の道は、まず民を養うことを第一に考えなければならない。」
— 李世民
「民を損なって自分の身を養うのは、自分の股の肉を割いて腹を満たすようなもので、腹が満ちても身は滅びる。」
— 李世民