許せない人が、一人いる。そう気づいた夜のことを覚えているでしょうか。もう何年も前に終わったはずの出来事なのに、ふとした瞬間に相手の顔と言葉がよみがえって、胸のあたりが重くなる。忘れようとするほど鮮明になって、そんな自分に嫌気がさす。許せないという感情は、こちらの都合を聞いてはくれません。
許しについて語られる言葉の多くは、誤解されています。許すことは、相手を正しかったことにするのでも、無かったことにするのでもありません。相手に「もういいよ」と伝えることですらない。それは、自分がずっと持ち歩いてきた重い荷物を、そろそろ下ろしていいと自分に許可を出すことです。
この記事では、許すこと・赦されることをめぐる40の言葉を集めました。古代の哲人から収容所を生き延びた人、心理学者、そして日本の作家や職人まで。忘れなくてもいい、感情が追いつかなくてもいい――そう言ってくれる言葉が、きっと見つかります。
恨みという荷物を、いつまで持ち歩くのか
まず確かめておきたいのは、恨みを抱えているあいだ、消耗しているのは誰かということです。
「憎しみは重い荷物だ。それを下ろすだけで、あなたは自由になる」
── デズモンド・ツツ(南アフリカの聖公会大主教)
アパルトヘイト後の南アフリカで、加害と被害の証言を延々と聞き続けた人の言葉です。荷物という比喩が的確なのは、それが「持ち続けることもできてしまう」ものだからでしょう。憎しみは自然に消えてはくれません。誰かが下ろすと決めない限り、肩に食い込んだまま何年でも運ばれ続けます。そして下ろした瞬間に軽くなるのは、相手ではなく運んでいた本人です。
「怨みは怨みによっては、ついに息むことがない。怨みを捨ててこそ息む」
── 釈迦(仏教の開祖)
『ダンマパダ(法句経)』に収められた、仏教でもっとも古い層に属する一節です。恨みに恨みで応えれば、相手にもまた恨む理由が生まれる。その循環は理屈のうえで永遠に終わりません。だから止めるには、どちらかが降りるしかない――そう言い切っています。降りる側が負けているのではなく、循環の外に出た側だけが終わらせられる、という構造の話です。
「怒りや憎しみは心の毒です。毒に当たって苦しむのは、あなた自身です」
── ジョセフマーフィー(潜在意識の研究で知られる著述家)
恨みの厄介なところは、それが相手に一ミリも届かないことです。こちらが眠れない夜を重ねているあいだ、相手は何食わぬ顔で日々を過ごしているかもしれない。この非対称性に気づくと、恨みが復讐でも抗議でもなく、ただの自傷に近いことが見えてきます。腹立たしい事実ですが、事実です。
「憎しみは、それを抱く者の上に跳ね返ってくる」
── ベートーヴェン(ドイツの作曲家)
耳が聞こえなくなり、家族とも周囲とも衝突を繰り返した人の言葉として読むと、実感の重さが違ってきます。彼は憎しみと無縁だったから言えたのではなく、憎しみに散々振り回されたからこそ、それが自分に返ってくることを知っていたのでしょう。
「私は誰にも、私に憎ませることで私の魂を狭め、貶めさせはしない」
── ブッカー・T・ワシントン(アメリカの教育者。奴隷の身から解放され黒人教育に生涯を捧げた)
自伝『Up From Slavery』(1901年)の一節です。これは「憎まないようにしよう」という努力目標ではありません。「憎ませはしない」という拒否の宣言です。誰かを憎むとき、私たちは相手に自分の心の使い道を明け渡している。それを許さない、と彼は言い切りました。奴隷として生まれた人がこの一文を書いたという事実の前では、たいていの恨みは少し小さく見えてきます。
復讐という誘惑を、やり過ごす
許せないとき、心はしばしば「仕返し」を提案してきます。その提案を、先人たちはどう扱ったのでしょうか。
「最良の復讐は、相手と同じような人間にならないことだ」
── マルクス・アウレリウス・アントニヌス(ローマ皇帝・ストア派の哲人)
『自省録』は他人に読ませるための本ではなく、自分に言い聞かせるための手帳でした。つまりこれは説教ではなく、皇帝が自分自身を押しとどめるために書きつけた一行です。仕返しをすれば、その瞬間から自分も相手と同じ土俵に立つことになる。そこに降りないことが、最も静かで確実な勝ち方だと彼は考えました。
「復讐ほど高価で不毛なものはない」
── ウィンストン・チャーチル(イギリスの政治家)
道徳ではなく採算で語っているのが、この言葉の強みです。復讐には時間も気力も評判もかかる。そして支払い終わったあとに手に入るものは、ほとんど何もない。感情に説得されないときは、こういう冷たい計算のほうが効くことがあります。
「許すことは復讐に勝る。」
── エピクテトス(古代ギリシアの哲学者。元奴隷)
ストア派の中心にあるのは、自分の力が及ぶものと及ばないものを見分ける訓練でした。相手の行いは変えられない。しかし、それにどう応じるかは自分で決められる。許しはその「決められる側」に属している――だから復讐より強い、という理屈です。
「怨みに報いるに徳を以(も)ってす。(以徳報怨)」
── 作者不明
東洋の古典に伝わる言葉です。恨みには徳をもって返す。似た結論に、ギリシアでもインドでも中国でも、まったく別々にたどり着いているのは示唆的です。復讐が割に合わないことは、人類が何度も確かめ直してきた古い発見なのでしょう。
「憎しみは人生を麻痺させる。だが愛は人生を解放する」
── キング牧師(アメリカの公民権運動指導者)
非暴力を掲げた運動の現場で、憎しみは倫理的に悪いだけでなく、実際的にも人を動けなくすると彼は見ていました。麻痺という言葉が生々しい。憎しみに囚われた人は、次の一歩を選べなくなります。愛を選ぶのは高潔さの表明である以前に、動き続けるための条件だったのです。
許しは、誰を自由にするのか
ここからは、許しがもたらすものの正体に近づいていきます。
「赦すとは囚人を解き放つことであり、その囚人が自分自身であったと気づくことである」
── ルイス・B・スメーズ(アメリカの神学者。赦しの研究で知られる)
著書『Forgive and Forget』の中心にある一文です。許しの物語では、たいてい相手が「赦される側」に置かれます。しかし実際に鍵をかけられていたのは、恨みという独房に自分を閉じ込めていた本人だった。この一文を読んだあと、許しという言葉の意味は少し変わって見えるはずです。
「許しは過去を変えられないが、未来を変えることができる」
── ハンナ・アーレント(ドイツ出身の政治哲学者)
許すことに抵抗を感じる理由の多くは、「なかったことにされる」感覚にあります。この言葉はそれを否定しません。過去は変わらない、と最初に認めている。変えられるのは、その過去がこれからの毎日をどれだけ支配するかだけです。起きたことを認めたまま、続きは書き換えていい。そういう許可です。
「赦しなくして、未来なし」
── デズモンド・ツツ(南アフリカの聖公会大主教)
真実和解委員会の議長として、加害者が自らの行為を語り、被害者がそれを聞くという困難な場を運営した人の結論です。個人の心の話にとどまらず、国が先へ進むための条件としてこう述べました。裁くだけでも、忘れるだけでも、社会は前に進めなかったのです。
「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ」
── マハトマ・ガンディー(インド独立運動の指導者)
許しはしばしば「我慢」や「泣き寝入り」と混同されます。この言葉はそれを正面から否定します。反射的にやり返すのは、感情に流されるという意味では最も弱い反応です。それをこらえて別の選択肢を取れる人だけが、強いと呼ばれる。基準がひっくり返る一言です。
「人を裁くのをやめ、許すことができれば、心は安らぐ。」
── ジェラルド・G・ジャンポルスキー(アメリカの精神科医)
誰かを裁いているとき、心は常に緊張しています。相手の非をカウントし、証拠を並べ、判決文を頭の中で書き直し続けている。その作業をやめると、まず疲労が減る。許しの効果として最初に現れるのは、感動ではなく静けさなのだと彼は言います。
それでも「忘れる」ことはできない
「許すなんて無理だ」と感じる人の多くは、許し=忘却だと思い込んでいます。ここを分けられると、ずいぶん楽になります。
「愚か者は赦しも忘れもしない。世間知らずは赦して忘れる。賢者は赦すが、忘れない」
── トマス・サズ(ハンガリー出身の精神科医)
『The Second Sin』(1973年)に収められた一文です。忘れることは許しの条件ではない、とはっきり言い切っている点で貴重です。覚えているのに許す。それは矛盾ではなく、むしろ成熟した形だとされている。「まだ覚えているから、自分はまだ許せていない」と自分を責めていた人にとって、これは大きな救いになるはずです。
「あなたの敵を許しなさい。だが、その名前は決して忘れるな」
── ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(アメリカ第35代大統領)
許しと警戒は両立します。恨みを手放すことと、同じ相手に同じ形で近づかないことは、まったく別の判断です。相手を憎まずにいながら、距離だけは変える。政治の世界で生きた人らしい、実務的で冷静な線引きだと言えます。
「許すはよし、忘れるはなおよし。」
── ロバート・ブラウニング(イギリスの詩人)
一方で、忘れられたならそれに越したことはない、という理想も同時に語り継がれてきました。前の二つと矛盾しているようですが、順序の話だと考えると納得がいきます。まず許す。忘却はそのあとで、来るかもしれないし来ないかもしれない贈り物です。最初から狙うものではありません。
「人の落ち度は、許すより忘れてしまえ」
── 中村天風(日本の思想家)
許そうと力むこと自体が、その出来事に注意を注ぎ続ける行為でもあります。ならば、いっそ関心を外してしまうほうが早い。天風の言葉には、こうした身も蓋もない実践性があります。真正面から取り組むより、脇を通り抜けたほうが速い問題も、確かにあるのです。
「受けた恩は忘れるな。受けた恨みは忘れてしまえ」
── 大山倍達(極真空手の創始者)
記憶は自然に選ばれるものではなく、どちらを手入れするかで残り方が変わります。恩のほうに水をやり、恨みのほうを放っておく。強さを追い求めた武道家がこう言い残したことには、それなりの重みがあります。
許しは、感情ではなく決意である
「許せる気持ちになったら許そう」と待っている人へ。その日は、待っていても来ないかもしれません。
「赦しは意志の行為である。そして意志は、心の温度がどうであれ働くことができる」
── コリー・テン・ブーム(オランダの著述家。強制収容所を生き延びた)
ユダヤ人を匿ったために収容所へ送られ、姉を亡くした人の言葉です。彼女は戦後、収容所の元看守と再会し、握手を求められました。感情はまったく追いついていなかったと本人が書いています。それでも手を差し出した。心が温まるのを待たなくても、意志は先に動ける――この一文の説得力は、その経験に裏打ちされています。
「赦しとは時折の行為ではない。それは変わることのない態度である」
── キング牧師(アメリカの牧師・公民権運動指導者)
説教集『Strength to Love』の一節です。許しは一度きりの決断ではなく、繰り返し選び直す姿勢だと述べています。一度許したはずのことがまたよみがえって苦しくなるのは、失敗ではありません。その都度また手放す。それが態度としての許しの実際の姿です。
「許すと決めた人だけが、許すことができる」
── 心屋仁之助(日本の心理カウンセラー)
順序が逆なのだ、という指摘です。自然に許せる日が来て、それから許すのではない。先に決めて、感情はあとからついてくる。カウンセリングの現場で、待ち続けてしまう人を数多く見てきた人の言葉でしょう。
「許すことには、忘れる、思い切る、前に進むという行為が必要となる」
── スティーブン・R・コヴィー(アメリカの経営コンサルタント・作家)
許しをひとつの巨大な心境の変化として捉えると、手も足も出ません。しかし三つの動作に分解されれば、どれか一つは今日できるかもしれない。連絡先を消す、話題にするのをやめる、別の予定を入れる。行為のレベルまで降ろすのが、この人の得意技です。
「人を許せるか否か。それは人間に与えられた試練です」
── 日野原重明(日本の医師。105歳まで現役を続けた)
多くの人の生死に立ち会ってきた医師が、これを人生の試練の一つとして数えました。裏を返せば、許せなくて苦しんでいるのは、あなたの人格に問題があるからではないということです。誰もが受ける試験であり、簡単だった人はいません。
人は許しあって、生きている
許しは一方通行ではありません。許す側にいると思っている人も、たいてい誰かに許されています。
「過つは人の常、赦すは神の業」
── アレキサンダー・ポープ(イギリスの詩人)
1711年発表の『批評論(An Essay on Criticism)』に由来する、赦しについて最も広く知られた一句です。過ちを犯すのは人間の標準仕様であり、赦すのは人間離れした難事だと認めている。ここに救いがあります。許せない自分を責める必要はない。それは神の業と呼ばれるほど難しいことに、いま挑んでいるという話なのですから。
「人の罪を許せば、また汝も許されるだろう。」
── 新約聖書
許しの相互性を説いた古い教えです。取引のように読むこともできますが、もう少し素直に受け取るなら、これは事実の観察でしょう。人を許さない人のまわりでは、誰も安心して間違えられない。厳しさは必ず自分にも返ってきます。
「罪を憎んで人を憎まず」
── 作者不明
中国の古典に由来するとされることわざです。行為と人格を切り離す、という技術がここに凝縮されています。「ひどいことをされた」と「あの人はひどい人間だ」は別の命題です。前者だけを認めて後者を保留にできると、恨みは驚くほど扱いやすくなります。
「他人を責める前に、許す余地がないかどうか考えるべきだ。」
── リヒテンベルク(ドイツの物理学者・箴言家)
責めるという行為に入る前に、一拍置く。その一拍で探すのは相手の弁明ではなく、「許してもよい理由がこちら側にあるか」です。主語が相手ではなく自分になっているところに、この箴言家らしい観察の鋭さがあります。
「信頼は98%。あとの2%は相手が間違った時の許しのために取っておく」
── 渡辺和子(日本のカトリック修道女・教育者)
許しをあらかじめ設計に組み込んでおく、という発想です。100%信じてしまうと、裏切られたときに関係ごと壊れる。最初から2%の余白を残しておけば、相手が間違えても関係は生き延びます。長く人と付き合うための、静かな知恵だと思います。
いちばん許しにくい相手は、自分自身
ここまで読んで、思い当たる人がいるかもしれません。許せていない相手は、実は自分ではないかと。
「許すは、まず、自分を許すことから始まります」
── 秋元康(日本の作詞家・プロデューサー)
他人に厳しい人は、たいてい自分にも厳しい。逆に言えば、自分に一つも許可を出せない状態で他人を許すのは、順序として無理があります。まず自分の失敗を一つ、大目に見てみる。他者への許しは、そのあとに来ます。
「ささいなことで怒鳴っているけれど本当は自分が許せないのです」
── 斎藤一人(日本の実業家)
不機嫌の正体を言い当てた一言です。他人の小さなミスに過剰に反応するとき、責めているのは目の前の相手ではなく、同じ失敗をする自分であることが少なくありません。腹が立ったら、その怒りが本当は誰宛てなのかを確かめてみる価値があります。
「未熟な自分を責めてる限り、幸せにはなれない」
── アルフレッド・アドラー(オーストリアの精神科医)
自己批判は成長の燃料になると思われがちですが、アドラーはそれを幸福の妨げと見ました。未熟であることと、未熟な自分を責めることは別です。前者は事実で、後者は選択にすぎません。やめても、成長は止まりません。
「ありのままの自分を許して生きるほうがずっと自然」
── ヤマザキマリ(日本の漫画家)
複数の国を渡り歩いて暮らしてきた人の言葉には、「基準は一つではない」という実感がにじみます。どこかの物差しで測って足りないと嘆くより、自分の形のまま立っているほうが、消耗が少なくて長続きする。自然という言葉の選び方が的確です。
「自分を許せない時期は辛いが、その果てにしか素敵な笑顔はないのだ」
── 村上龍(日本の小説家)
自分を許せない時間そのものを、無駄だとは言っていません。その苦しさをくぐった人にしか出せない表情がある、と言っている。いま自分を責めて眠れない人にとって、この言葉は否定でも励ましでもなく、ただ「その時間には続きがある」という報告として届くはずです。
許しあって、関係は続いていく
最後に、許しが日々の関係の中でどう働くのかを見ておきます。
「愛する事は許す事、自分も許されて生きてる事を忘れないで」
── 瀬戸内寂聴(日本の作家・僧侶)
視点の反転を促す言葉です。自分は許す側にいると思っているとき、たいてい忘れているのは、これまで自分がどれだけ見逃されてきたかということ。数え始めると、けっこうな数になります。それに気づくと、握っていた手が少しゆるみます。
「愛というのは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること」
── フローレンス・ナイチンゲール(イギリスの看護師・看護教育の創始者)
過ちだけでなく「意見の対立」まで許しの対象に入れているところが独特です。相手が間違えたときだけでなく、相手が自分と違う考えを持っていることも、許しの範囲に含まれる。同意できないまま、それでも一緒にいる技術のことを、彼女は愛と呼びました。
「もし本当に愛したいと願うなら、許すことを知らなければなりません」
── マザーテレサ(カトリックの修道女)
愛の前提条件として許しを置いています。人は必ず互いを傷つけるのだから、許す手立てを持たない愛は、最初の衝突で終わってしまう。理想論のように聞こえて、実際にはきわめて現実的な指摘です。
「30過ぎて親を許せないやつはバカだ」
── ビートたけし(日本のお笑いタレント・映画監督)
言い方は乱暴ですが、指しているのは「親を完璧な存在として採点するのをやめろ」ということでしょう。親もまた、手探りで、不完全なまま子育てをしていた一人の人間だった。そう見えてくる年齢になったなら、採点表は畳んでいい――そういう促し方だと読めます。
「かけた情けは水に流せ。受けた恩は石に刻め」
── 尾畠春夫(日本のボランティア。「スーパーボランティア」として知られる)
大山倍達の言葉と対になる、記憶の使い分けの技術です。自分がしてあげたことは流し、してもらったことは残す。この配分で生きている人のまわりには、恨みが溜まりにくい。日々の小さな習慣として、これほど実用的な指針もありません。
許しは、相手のためにするものではありません。相手が反省していなくても、謝っていなくても、こちらが荷物を下ろすことはできます。そして今日ぜんぶを許す必要もありません。忘れなくてもいい。感情が追いつかなくてもいい。ただ「もうこれ以上は持ち歩かない」と決めるところから、すべては始まります。次に胸が重くなったとき、この中のどれか一つを思い出してもらえたなら、それで十分です。