竹下佳江の他の名言

(アテネ五輪の出場権を獲得したときのことについて)やっとオリンピックの舞台に立てるという思いもあったし、出場権を獲れなかったときのメンバーに対しても、何かしらの思いは伝えられることができたと思いました
JTの当時の部長さんと、一柳昇監督が何度も何度も私の所に来て、「うちでやってくれないか」と。最初は「うん」とは言えなかったのですが、本当に何度も足を運んでいただいた。それで、たとえ少ない人数でも、自分を求めてくれる人の期待に応えられるようにしようと思いました。だから、おふたりには、自分が閉ざしていたものを開いてもらったという意味ですごく感謝しています
初めて一人暮らしをしたので、新鮮でした。ハローワークにも通いました
一度バレーから離れようというのが一番で、具体的なビジョンはなかったです。世の中の人がみんな敵に見えるし、人間不信になったので、離れて時間をおきたかった
シドニーのことがあってから2年経ってやめたのは、いろんな事情があったから。チーム事情もあったので、自分だけではどうにもできない問題もあった。このときの2年間は義務感だけでバレーをしていました。心には大きな傷を負っているのに、チームに迷惑をかけたくないからコートに立つ。コートに立ったら勝たなくてはならない。苦しくてたまらなかった。オリンピックには未練がありましたけど、あのときは切り捨てるしかなかった
(シドニー五輪予選で女子バレー史上初の五輪不出場となってしまったことについて)とにかく周り中、みんなが敵に見えました
(骨折をして)私のトスがぶれることもありましたが、そんなトスをみんな必死で打ってくれた。そのことが私を励ましてくれました
自分自身、本当に頑張ったと思います。いろんなことがありましたし、長い道のりだったなというところですかね
(メダルをとって)素直に嬉しいという気持ちが一番。でも、そのときのことを言葉で表現しろと言うのは難しいです。本当に、言葉にしたらそれだけになっちゃいますね
現在NTC(ナショナルトレーニングセンター)などが、産休後の女性選手をバックアップするような取り組みをしていますし、そうなれば徐々に増えていくのではないかなと思っています

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