名言大学

禅とは、
心の奥底にある無限の創造性に徹し、
これに随順して生きること

宗教の本領は「理」の矛盾を脱却し、
此身を以て宇宙の大化と渾融し、
百不知、
百不会、
其趣く所に任ずるに在り

人生の真相は現世に愛著するにもあらず、
来世を欽仰するにもあらず

西洋人は物事を頭で考えて分析・比較・対照するが、
東洋人は全体を見て腹で考える

愛は実在をあるがままに正しく見ることから流れ出る

真っ黒になって黙々として一日働き、
時期が来れば“さよならで消えていく。
このような人間を偉い人だと自分は言いたい

昔、
孔子が衣食足りて礼節を知るといったように、
衣食住が充分でないと、
その方面の要求を満たすに忙しくて、
礼儀というようなことは行われぬ。
礼儀ということは即ち文化ということである

愛は、
自我をしてその愛する対象の中にみずからを失わしめる。
しかも同時にまた、
その対象を自分のものにしようとする。
これは矛盾であり、
また人生の一大悲劇である

無心というは妄想なしとの義である

原始民族が、
魚を取って食べるとか、
それからオットセイを食べるとかいう所を見ると、
いかにも人間というものが生きて行くためには、
又他の生物を食べて行かなければならぬ

死を恐れるのは、
やりたい仕事を持たないからだ。
やりがいのある、
興味ある仕事に没頭し続ければ死など考えているヒマがない。
死が追ってくるより先へ先へと仕事を続ければよいのである

自分の物もないし、
人のものということもないので、
その生活様式は本当に共産主義の生活である

我々は知性に生きるのではなく、
意志に生きるのだ

依頼心を捨てよ。
これに尽きる

禅は事実を扱うものであって、
一般論を語るものではない。
禅は人格の根源に直入する

禅は不意を打つものだ

人間は偉くならなくとも一個の正直な人間となって信用できるものになれば、
それでけっこうだ

エスキモー人の集団生活というものには、
個人主義とか私有財産など云う概念がないと云うのです。
一人が持って来たものは、
みんなで分ける、
みんなで食べる。
一人だけで大事な物をこっそりと持って居るなどということがなくて、......

わしは死神と競走で仕事をする

それになりきってその他のことを考えない

エスキモーの生活というものは、
極めて原始的なものである。
今日我等の生活はこれに反して『文化的』である

禅とは一人ひとりの実際の体験であって、
分析や比較によって得られる知識ではない

美は過去も未来もなく、
唯、
現在あるが故に、
いつも生きているのだ

死中、
夢中、
ひとまとめにして丸飲みするということができれば、
仏教的になりますけど、
そこに本当の安心ができると

原始生活に教えられる所は、
必要以外のものは絶対に何も要らないということ、
そうしてお互いに共同融通して私を忘れるというような所である

分かったようで分からんという所に何か分かったものが無いとそう言えんのです

宗教生活にも原始生活の面影を宿したところがある

未来という事はないので、
過去ということもないので、
現在ということもないのです。
ただあるものは「フッ」とこう言うと、
もう過ぎ去ってしまうテン・・ instantですね。
即今と言いますか、......

西洋は二次元の世界。
底には対立があり、
一方は他を力で支配しようとする

それは常に意識の本質に相当する必然的一面性である

東洋の心は無心になる事。
どこまでいっても無限で天地の分かれがない

科学が万能だというのは近代人の一つのミスですね

偉大な仕事は、
人が打算的になっておらず、
思考していないときになされる

意識の世界は、
不可避的に、
制限と、
道を阻む障壁とに充ちた世界である

今日文明開化の人々がなくてはならぬと云うようなものは、
原始生活をして居るものには何も要らない

生死という形で、
矛盾の問題を最も真剣に考えた民族は印度人である。
彼等は生死を解脱すると云うことに、
一所懸命であった。
生死流転という文字は印度から出て東方諸民族の思想を支配するようになった

悩みの解決は矛盾を超越するところに見られる。
人間は反省する、
分別する、
矛盾を見る、
悩むとすれば、
その矛盾を超越するより外に解決の途はない

細かくても粗くても目には限りがある

宗教の世界は、
即ち禅の世界である、
禅に入ることによってのみ、
道徳の真実性が認められると云ってよいのである

道徳の世界は宗教の世界、
禅の世界に引上げられねばならぬ

一真実の世界は道徳の世界を超えて居る

(宗教とは何ですか?
)我々は無限の社会で苦しいと言っている。
自由にならないとか苦しいというところに何か限られたものを感じておって、
限られたものを感じるということが正しい無限を感じることに決まっておるんですね。
そうでなければ無限、
有限というものが苦しいと感じることもなけりゃ不満足だと考える理屈はないんですね。......

道徳の世界にのみ居ては、
宗教の世界へは入ること不可能である

道徳は宗教におき換へられねばならぬ。
併し道徳から宗教は出て来ぬ、
宗教からは道徳は出ることが出来る

鈴木 大拙(すずき だいせつ、本名:貞太郎〈ていたろう〉、英語: D. T. Suzuki 〈Daisetz Teitaro Suzuki〉1949年に文化勲章、日本学士院会員。