名言大学

私はいつもイチローの自主性に任せていました

イチローは小さい時から野球によって、
いかに自分を表現できるか、
自分の中に秘められた美しいところを如何に表現できるか常に考えていました

どのような天才や偉大な人物でも、
親よりは偉大ではないのです

イチローを育てて下さった名電高の中村監督はイチローを評して「彼の人間性そのものの成果。
人間力のなせるもの」と仰って下さいました

(バッティングセンターは)イチローの選球眼を養い、
動くものをとらえる視力を発達させ、
さらに集中力を高めるという最良の練習にはなりました

私たちの練習は、
イチローが学校から帰って、
およそ三時半頃から約二時間か三時間くらいかけて、
毎日やるのが日課でした

練習メニューはイチローと一緒に考えました

私は教育家ではありません

イチローの今日の原点は、
兄の一泰が野球で遊んであげた事なのかもしれません

(イチローさんに向けて言った事)プロ野球の選手は消耗品なんだよ。
いい選手になって、
いいプレーをしようと思ったら、
いい意味で要領よく、
適当に気を抜く、
つまりそれが節制になるんだ

(イチローは)いつも負けん気の強い、
燃えるような意思を持っていました

子どもは叱るべきものではなく、
尊敬すべきものである

私たちの野球の練習には、
見方を変えれば、
小学生の力量と技術を遥かに超えた、
それは厳しく過酷なものがありました

私の価値観ばかりをイチローに押し付けようとしてはいけない

人間一人のエネルギーは、
おのずから限度があります。
あとは周りの人が協力してくれるかどうかです

(高校時代)イチローは勝っても負けても冷静でした

(高校三年生の時)レギュラーメンバーの脳波測定をしたことがありますが、
集中力を示すアルファ波は飛び抜けて高かった

バッティングセンターでの練習の時にイチローが打ち込んでいたマシンの球の速さは三、
四年生で100キロ、
五年生で110キロ、
六年生の終わり頃は120キロまでになっていました

日常の何気ない暮らしの中で家族全員が揃って会話を楽しめば、
それでいいのです

(イチローさんが引退したことを受けて)ちょっと寂しい気持ちはあるが、
これまで十分に楽しませてくれました

親としての立場からいうならば、
イチローとの日々の関わりの中で、
子どもの可能性を引き出していくという努力は心掛けきたつもりです

教育はよくも悪くも受け継がれていくもの

教育をおろそかにした結果は、
先が見えています

教育は一朝一夕でできるものではありません

(子育てについて)義務教育の間が特に重要で、
この期間に親や学校の先生をはじめとした周りの大人がちゃんと見てあげることが大切

野球がうまくても、
周囲に感謝できない人間ではしょうがない

(イチローさんが)本格的に野球を始めたのは、
小学3年生の頃

最高の教育とは父親が教えること

人が生きるという事は、
人に生かされているという事

今まで受け取ったものを人に返す時が来る

可能性の何を引き出し、
拡大し、
育てるか

何事においても効率の悪いやり方は大嫌い

野球を通じて素晴らしい人間になれ

緊張しきった状態でも、
自分の力が発揮できるのが本当の力のあるスポーツマンだ

私はイチローから野球を楽しむ事を教わった

鈴木 宣之(すずき のぶゆき、1942年12月8日 - )は、日本の実業家、作家、アマチュア野球指導者。愛知県名古屋市熱田区出身。東海中学校・高等学校、芝浦工業大学工学部二部卒業。

高校在学中は外野手として野球部で活動。3年生のとき、夏の愛知県大会ベスト4進出。大学卒業後は、東京都品川区西中延の伯父の会社に勤務。1970年、愛知県西春日井郡にて実兄の世話で、機械部品製造の自営を始める。

イチローの実父で、イチローの個人事務所「オフィス・イチロー」の代表も務める。イチローの父親であることから、「チチロー」と呼ばれることもある。また、元ファッションモデルの鈴木来海は孫に当たる。

イチローが小学校の3年生の時から中学に入るまで、学校から帰宅して日が沈むまで毎日、野球の練習に付き添い、また練習後は毎晩イチロー選手の足の裏をマッサージをしていた。

宣之自身は息子のメジャー挑戦に反対したことはないと主張しているが、一方で2002年11月に豊山町で催された『イチロー杯争奪学童軟式野球大会』の表彰式で、イチローは「大リーグ挑戦を父に反対されて辛かったけれど、意思を貫いてよかった。自分で決断ができる大人になってほしい」と述べたと報じられている。

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