名言大学

門松は冥土の旅の一里塚、
めでたくもあり、
めでたくもなし

自分の人生は、
自分一代のものだ

例えば人の父母は火うちの如し。
かねは父、
石は母、
火は子なり

詩を作るより、
田を作れ

袈裟が有り難く見えるのは、
在家の他力本願

渇しては水を夢み、
寒ずれば衣を夢み、
閨房を夢みる、
すなわち、
余の性なり

生まれては、
死ぬるなり。
釈迦も達磨も、
猫も杓子も

世の中は食うて糞して寝て起きて、
さて、
その後は、
死ぬるばかりよ

この道を行けばどうなるものか、
危ぶむなかれ、
危ぶめば道はなし、
踏み出せばその一歩が道となる、
迷わずゆけよ、
ゆけばわかる

自心すなわち仏たることを悟れば、
阿弥陀願うに及ばず。
自心の外に浄土なし

正月は、
冥土の旅の一里塚。
めでたくもあり、
めでたくもなし

大丈夫だ、
心配するな、
なんとかなる

美人の淫水を吸い風流な情事を終わって三世の愛を誓う。
私は生身のまま畜生道に堕ちたのだ

偉い僧侶と同じだ。
外側は立派だが中身は使い物にならない

見たことも聞いたこともない

悟りなどないということを悟った

世の中は起きて稼いで寝て食って、
後は死ぬを待つばかりなり

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

今日は大燈国師の命日の前日で本堂ではたくさんの坊主たちが、
禅商売用の香を焚き、
経を読んでいる。
その声がうるさく邪魔になってしょうがない。
私はちょうど美人との情事を終えたあとで、
こっちの方が私には大事だと話していたところだ

つまらぬ争いの根本は、
永遠の過去から引き継いだ人間の愚かさ、
つまり自分に執着する心情なのだ。
それをいつまでも担いで歩けば重かろうに。
蝶のあの軽々とした姿に比べて何と愚かなことか

私の怒りや恨みや欲情も、
出家する20年前と同じく今でもなくならない。
汚れた俗世間から超越し一切の煩悩を断ち切ったはずなのだが、
美人を見れば胸が高鳴ってどうしようもない

世の中の生死の道に連れはなし。
ただ寂しくも独死独来

我はこれ何者ぞ、
何者ぞと、
頭頂より尻まで探るべし。
探るとも探られぬところは我なり

大空の月、
もろもろの水に宿りたまうといえども、
濁れる水には宿りたまわず、
澄める水のみ宿りたまうがごとし

彼の一仏は、
水の器物に従うがごとし。
陰陽寒熱の因によりて、
種々変ずるがごとし

今日ほめて明日わるく言う人の口。
泣くも笑うも嘘の世の中

この世にて慈悲も悪事もせぬ人は、
さぞや閻魔も困りたまはん

人間の有り様は、
万事が止まることがない。
生の始りを知らないと、
死の終りを弁えない。
やみやみ茫々として、
苦しみの海に沈んでいく

私が詩づくりに励むのは自分への執着が強く、
自分を偉そうに見せようとする煩悩があるからだ。
注意しなければいけない

夫れ人間あり様 万事とどまる事なし もとより生のはじめを知らざれば 死の終をわきまへず

有露地より無露地へかえる一休み 風吹けば吹け 雨降らば降れ

女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む

花は桜木、
人は武士、
柱は桧、
魚は鯛、
小袖 はもみじ、
花はみよしの

借り置きし 五つのものを 四つ返し 本来空(くう)に 今ぞもとづく

もし私の性欲を昇華して雅やかな歌にかえられるなら、
その価値ははかり知れぬほどの黄金に匹敵するはず

美人の陰部は水仙の香りがする。
楚々とした腰に口づけしよう。
もっと抱きしめて愛したい

経文に気をとらわれてこだわりすぎると、
有害なものになる。
私も経にとらわれてしまって、
犬や猫にも及ばない。
犬でさえ仏殿に向かって、
何の迷いもなく小便を引っ掛けるのに

日々なすべき正しいことは、
弓を引いて「心中の賊」を射落とすこと。
今の世は仏と魔物が混ざり合っている

世の中に我れぞ悟ると自慢して 名利求むる人の多さよ

私は元々道に迷う凡夫であって、
愚かな迷いが深いので迷っていることすら気づかない。
しかし、
悟りに至らなくても、
もし道を求める心さえあるならば、
自然に成仏することだろう

わざわいというものは、
元々福の裏返しにすぎず、
福と禍は一筋の縄に過ぎないと信じる

釈迦は、
生まれつき偉い人のように思いがちだが、
元々我々と同じような人間であった。
しかし釈迦は6年間苦しみながら修行をし仏となった。
そこが我々と違うのだ

むさぼりと怒り・恨みの煩悩の根本は、
言ってもしょうがないことを言って嘆くことにある

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。