名言大学

「楽しい人生」と「楽な人生」は違う

走った距離は、
裏切らない

ワコールっていう大きな会社に残って、
そのまま仕事をする方が、
自分の人生にとっては良かったのかも知れないけど、
私は陸上競技の楽しさを知ってしまって仕事みたいな感じには思えなかった

会社の人にも残って仕事をしたらと言われました

4カ月ぐらい仕事がなくて、
ハローワークに行きました

社会人になってもワコール時代にはそんなにプロ意識というのは無くて、
ワコールから次のグローバリーに移る失業期間が私には一番のターニングポイントみたいな感じなんです。
プロ意識が芽生えて、
身体も絞れてきて、
3年目から陸上の成績もだんだん良くなってきました

走った距離とは言ってますけど、
努力は裏切らない。
走った距離もそうですけど、
毎日の積み重ねがすごくものを言う競技だと思うので

目標と聞かれたら、
やっぱりドクターストップが掛けられるまで、
走り抜くこと

入社当時の面接では、
「陸上をウチの会社でやっていくうえでの、
目標みたいのはありますか」という質問に対して、
みんなは大体「日本代表選手になりたい」とか、
「日の丸をつけてオリンピックで活躍したい」みたいに言っていたのですが、
私はみんなと同じ言葉は嫌なので、......

自分達で食事を作ったり、
栄養をちょっと考えて、
それも勉強できるし。
だから私には必要な時期だった。
神様が与えてくれた時期だったのかなって。
絶対に私の陸上人生の中ではなくてはならない4ヶ月間だったと思います

ワコール時代は会社に行って、
その会社の給料をいただいて、
陸上競技をしていた。
食事も栄養士さんが考えて作ってくれるような状態だったので、
すごく恵まれていた

色々出来なかったことも経験できたので、
それは自分にとってはプラスになったと思います

もう一人の選手の方が、
実業団の大会で1位を取ったり、
自己記録をどんどん塗り替えていった選手なので連れて行くのは当たり前だし、
私なんかでいいのかと思っていました。
逆にだからこそ恩返しをしたいという気持ちはありました

まだ1、
2年なので、
そこまでは信頼関係というか。
レースで結果が出ていない私を一緒に連れていってくれるのはすごくありがたかった

まだ長い距離も走れずレースでも結果を出していなかったので、
付いて行ってどこまで自分がやれるかというのを試したかった。
もっともっと自分の世界を広げたいと思っていました

とにかく頑張ってやったら結果が付いてくるんじゃないかなと

やっぱり監督やコーチに付いていきたいという気持ちがすごく強かった

だからアテネオリンピックで金メダルを取ったあとも、
モチベーションを保てたのかなと

夢っていう質問に対しては、
マラソンを走り続けることと答えます。
今が夢の真っ最中という感じなので

全力を尽くして駄目だったら、
駄目かも知れないしと考えていたので

どんな状態で自分がマラソンというか、
陸上競技を出来るのか分からないし、
1、
2年したらもう辞めてしまうかも分からないし

それだけじゃなくて、
競技をやっていくうえでは、
勝負だけじゃなくて、
記録ということもあるし、
いろんな目標があると思うので

レースの中で目立つというか、
世界の人に見てもらいたい。
こんな小さいけど努力したら、
金メダルも取れるよ、
みたいな

金メダルを取ることが出来たのも、
いままで集中してやってこれたからだと思います。
私が目指しているのはメディアやコマーシャルに出てとかではなく、
やっぱりマラソンで自分が納得いくまで、
足が壊れるまで走りたいというのが目標なので

いや、
目立つのは好きなマラソンだけでいいです

気持ちいいだろうな、
鳥肌が立つぐらい気持ちいいんだろうなって思いながら見てて、
だからそういう目立つことがたぶん好きだと思うんです。
それが競技の場だったんです

確かに前日まではそんなに緊張してなくて、
当日はそれなりに緊張があったと思うんです。
でもいろんな国の人が注目するレースで、
いろんな国の人と走れるし、
こんな楽しいというか、
本当に自分を表現する場所はないという感じで

雰囲気だけはすごく感じて、
大きい試合になればなるほど、
私はワクワクするタイプなんです。
だからむしろ緊張とかいうより、
楽しんで

雰囲気はやっぱり全然違います。
いろんな競技の選手の、
最大の目標であり、
舞台である場所なので、
雰囲気とか世界大会とは違うと思うんです

私は世界大会が大好きだったから、
7キロぐらいの周回で走っていたんですけど、
先頭だったんですよ。
最初は「外人についていけばいいや、
初めての世界大会だし」と思ってスタートしたら私が先頭なんですよ。
なんだこんなもんだったのかと

小さな試合でも大きな試合でも、
本当に1つ1つ全力を尽くしていきたいので

最初に海外に行ったのは1999年のイタリアのシチリア島であった世界ハーフマラソン大会が初めてでした

だから次は何を目標にしていくか。
監督とコーチの間では、
大きな目標があってそれに向けたスケジュールも考えられていると思うんですが、
私はその大きな目標も大事だけど、
その前の小さな試合も少しずつ、
ちゃんと消化して、......

確かにアテネオリンピックで金メダルを取って、
本当に嬉しかったですけど、
いつもの試合と同じような感覚だったんです。
監督もそれは言っていたし、
コーチも言ってたんですけど、
私も同じような感じでした

だから監督、
コーチというより、
私にとってはお父さんとお兄ちゃんって感じです

それはハーフマラソンを何本か安定して走れるようになってからです。
もしマラソンを走ったらどれぐらいで走れるのかというのがあったし、
自分の中でチャレンジしたい、
監督やコーチもきっとチャレンジさせたいと思っていると

シドニーオリンピックの前後ですね。
社会人になってそれなりに競技レベルも少しは上がるにつれて、
自分の精神的な部分も、
だんだん上がっていったような気がします

その割りには小さく見えないと言われます。
走ってるときには

マラソンの前に世界ハーフマラソンで、
メキシコやイギリスで走った時、
沿道の外人の人に振り向かれました。
『何、
あの小さいの』みたいに。
隣でラドクリフ選手が走っていたので、......

外国の人たちは知らない人でも挨拶して、
フレンドリーに話しかけてくれるので、
私もそうなれたらいいなと思います。
自然におはようございますが言えるような

食材っていっても、
ふりかけとか調味料みたいなものを持って行ったりするぐらいで、
むこうの食べ物を楽しむほうですね

UFOは私だけじゃなくて、
トレーナーの人も

でもいいですよ。
中国で合宿したり、
アメリカのボルダーで合宿したりしても。
でも外国に行っても日本食が恋しくなるということはあまりないんです

私は日本代表で試合に臨む限りは、
100%力を発揮したいと思うし、
メダルは何色とは言いませんけど、
獲得圏内には行きたいなと思っているだけです、
平常心で

自信にはなりましたね。
どんなところでもやっていけるかなっていう、
手ごたえみたいなものは掴めた気がします